晩秋の感性充電! 忠清南道・論山

2016年12月20日

論山_明齋故宅

 

千年歴史の山寺を越え、両班故宅と近代通りが迎える
韓国旅行の新世界

晩秋の感性充電! 忠清南道・論山

 

 論山は新世界だ。千年の歳月を守ってきた仏教寺院での静かなヒーリングの後に、完璧に保存された朝鮮時代の両班故宅と100年以上前の近代通りの歴史が、けっして短くはない時間旅行を味わわせてくれる。深い内陸に位置しながらも、西海に注ぐ錦江の河口の港町の情緒を感じさせるため、論山という旅行地には「新世界」という修飾語がよく似合う。旅行者を誘惑するグルメも格別だ。韓国最高の味を誇る数十種類の塩辛がいっぱいの塩辛市場と塩辛定食が論山ならではの潮の香りを漂わせる旅の同行者となるので、それほど期待はしていなかった論山であればこそ、その感動と感激は大きく濃厚だ。

文/李相直記者、町野山宏記者
ソウルの中心地である龍山駅からKTXに乗って1時間40分。天安牙山駅や大田駅など、忠清南道の主要駅を過ぎて、果てしなく広がる平野が迎える論山に至る。

韓国で論山が持つ最も代表的なイメージは、「軍隊」だ。韓国戦争の休戦交渉が進行していた1951年11月に開発した韓国最大の陸軍訓練所があり、徴兵制がある韓国の男性の二人に一人は、現在もここ論山陸軍訓練所を通して入隊しているからだ。

韓国戦争の産物であり、二十歳になったばかりの韓国の男性たちが、大学や会社を背にして2年以上の軍入隊を経験する最初の関門なのだ。それで、韓国人にとって論山は苦労と別れの場として記憶されていたりもする。

そのような沈痛な感情が行きかう論山だが、それとは反対に魅力的な観光スポットがあるため、最近では、旅行者が大幅に増えた。特に、古代から近代の歴史を網羅する、これまでの忠清南道圏では満たすことができなかった見所がスポットライトを浴びており、旅行の新世界を見せる論山旅行に欲が出ざるを得ない。

 

千年古刹・灌燭寺の後ろには論山8景・塔亭湖が迎える

論山の古代史を見たいなら、般若山の山すそにある仏教寺院、灌燭寺(クァンチョクサ)が名所だ。論山駅からタクシーを利用して15分程度で行けるのでアクセスも便利だ。

灌燭寺は高麗時代の968年(光宗19)に僧侶の慧明(ヘミョン)大師が創建した寺だ。この寺が有名な理由は、境内の一角にある巨大な石の弥勒菩薩立像(石造彌勒菩薩立像:宝物第218号)、別名・恩津(ウンジン)彌勒弥勒があること。

灌燭寺

 

仏像の高さは18mに達し、韓国の石仏の中で最も大きい。外観は、高麗時代の多くの地方の仏像がそうであるように、精巧さも美しさも見られない。頭が大きく、全体的な均衡美も低い。それにもかかわらず、高麗時代の仏像様式を代表する作品であり、民衆のための弥勒信仰の中心としての意味は大きく、韓国の歴史の教科書にも載るほど有名だ。

確かに美麗な石仏でないが、恩津弥勒は絶えず視線をひきつける魅力を放っている。巨大な胴体と、その胴体よりも大きな2Dキャラクターを思わせる巨大な顔に思わず笑みがこぼれ、その顔の上に帽子にあたる精巧な宝冠に目が行く。大きな顔に、比率が合わない大きな目、どう見ても慶州の石窟庵の仏像で感じるたおやかさはない。しかし、逆に親近感が感じられる。石窟庵の仏像が羨望の対象であるものの近寄りがたい芸能人のような存在ならば、恩津弥勒は困難な時に手を差し伸べてくれる友人のような存在といえば伝わるだろうか。

立てられるまで38年もかかった巨大な恩津弥勒は、仏像にまつわる伝説もとても興味深い。

高麗の光宗の時代、大きな岩が土の中から湧き上がり、赤ちゃんの泣き声が聞こえるという事件が起こる。光宗は、臣下を朝廷に呼んで議論し、やがて光宗は「これは仏像をつくって立てなさいという兆候で、天が送られたものである。慧明大師に命じて石仏を造成させよ」と名を下したという。

命を受けた慧明大師は石工数百人を連れて工事を始めたが、下半身部分の上に、別に刻んだ上半身を乗せる方法が見つからず、苦心をする。そんなある日、童子が石で仏を立てる遊びをしているのを見かけた。大きな石を立ててその周囲に土を盛った後、もう一つの石を転がして、石の上に立てる。それを繰り返して、一番上の石まで載せた後、その周りの土を取り除くと石仏だけが残った。それを見て弥勒を立てる方法を悟り、ついに巨大な仏を立てたと伝えられている。クレーンもない時代にどうやって巨大な立像を立てたのかという疑問もここで解ける。

灌燭寺の特別な伽藍(寺院の建物の配置構造)もポイントだ。灌燭寺は最初から寺院として造成されたのではなかった。恩津弥勒の仏像を通して仏の意を伝えることが目的だったため、礼拝するための弥勒菩薩が別にあるのではなく、恩津弥勒の正面にある観音殿で礼拝する。観音殿は前方が透明なガラス窓となっており、観音殿で頭を下げると、恩津弥勒と視線を合わせることになる仕組みだ。

恩津弥勒の前にある拝礼石が、このような灌燭寺の伽藍配置をよく表している。論山の先住民たちが安息と希望を求めて恩津弥勒に礼拝をささげた祭壇がこの拝礼石。拝礼石の前には石灯(宝物第232号)が一つあるが、単なる造園用の石灯ではない。農作業で忙しかった論山の先住民は、仕事を終えた夜に恩津弥勒を訪ねた。暗くなった夜も恩津弥勒を照らしたのが石灯なのだ。

「灌燭寺は単なる仏教信仰の聖地である前に、民衆仏教の始まりを告げた場所です。当時の仏教は上流階級だけのもので、一般民衆は土俗信仰が主でした。しかし、この恩津弥勒が論山の地に立てられ、高麗時代の人々は、この巨大な弥勒菩薩像の威厳に魅了されます。土俗信仰から移行した本格的な民衆仏教の出発点は、この恩津弥勒であり、この恩津弥勒がある灌燭寺が持つ真の価値」と、灌燭寺の専属文化解説者であるヨ・ヨチョルさんは語る。

参考までに、灌燭寺を訪ねるなら、昇進を狙う会社員にぴったりだ。韓国では公職や企業の昇進の機運が最も高いといわれているため、恩津弥勒がじっと見下ろしている観音殿の中に昇進を望む発願文を掛けておこう。

灌燭寺を訪ねたら、車で5分の距離にある巨大な湖であり、論山8景に数えられる塔亭湖(タプチョンホ)にも足を伸ばしてみよう。塔亭湖は、論山を流れて西海に面する群山まで続く錦江の支流である論山川の発祥地だ。

塔亭湖

 

禮唐湖(禮山所在)に続いて忠清南道で2番目に大きな湖で、公園や遊歩道が整備されており、水上レジャースポーツや釣りの名所としても脚光を浴びている。

最大の見所は、やはり風景だ。早朝であれば夜明けの霧が立ち上る神秘的な風景を、夕暮れであれば湖全体を赤く染める夕日が感動を呼ぶ。

見所も充実している。塔亭湖の入口にあたる塔亭橋付近には百済時代の最後の将軍である階伯将軍のオブジェが設けられ、その反対側には、階伯将軍が5千の兵を率いて新羅の5万の大軍に立ち向かい、百済の歴史と運命を共にした戦場跡である黄山伐(ファンサンボル)と階伯将軍をテーマに百済時代の軍事文化が体験できる百済軍事博物館、そして塔亭湖の新名所である水辺生態公園まで、塔亭湖畔に沿って点在する論山の絶景と歴史を同時に楽しむにはぴったりだ。

 

300年前の朝鮮後期両班家屋の白眉、明齋故宅

高麗時代の次に訪れた朝鮮時代は儒教の時代だった。儒教の徳目を体得した「両班(ヤンバン)」と呼ばれる学者が国をつかさどった。両班たちはそれぞれの地域で韓屋を建てて住んでいたが、それが韓国のいたるところにそれらの故宅が残っている。

論山にある故宅は、「明齋故宅(ミョンジェゴテク)」。朝鮮第19代王である粛宗(スクチョン)の時代の党派の一つ「少論(ソロン)」の指導者である尹拯(ユン・ジュン)の故宅である。尹拯は由緒ある家門に生まれ、深い知識と徳から何度も役人に推挙されながらもすべて辞退し、故郷で学問に精進した。明齋故宅の名は尹拯の号である「明齋」からとったものだ。

明齋故宅

 

この日、明齋故宅を案内してくれたのは、この家の子孫。1709年に建てられてから尹拯の子孫が代々ここで暮らしており、300年の間、この家を守っているという。しかし、尹拯の生前に建てられた家屋でありながら、尹拯自身はこの家に住んだことはないという。「草家三間」と呼ばれる最も粗末な家に住んでいた尹拯のために弟子たちがこの家を建てたが、「自分にはこんな立派な家は必要ない」といって、もとの家に住み続けたのだ。そしてこの家は弟子たちの育成のために使い、孫の代になってはじめてこの家に住み始めた。

明齋故宅は韓国の中部地方の伝統韓屋の典型的な様式を見せている。山を背後にして南向きに建てられ、男性の空間であるサランチェと女性の空間であるアンチェが別々の建物に分かれている。

まずはサランチェから見学する。サランチェの南側は、右側の板の間と中央のオンドル部屋、左側の「楼(ヌ)マル」の三つの部屋に分かれている。オンドル部屋は思ったよりも広い。おじいさんが使う部屋で、来客時には中央に間仕切りを立てるなどしてフレキシブルに使用した。そしてこの部屋で特筆すべきは狭い控え室との間にある「アンゴジギ門」と呼ばれる扉。これは引き戸と開き戸を兼ねた、ここにしかないものだ。4つに分かれた扉の内側の2つは引き戸で、引き戸を開けて重なった2枚の扉を開き戸として開けることもできるため、一つだけ開けた状態から完全な開放までさまざまなバリエーションが可能になるっているのだ。保存状態もよく、つくられた当時の扉が今も使われていることに驚きを隠せない。

明齋故宅 楼マルと呼ばれる高床式の部屋はさらに居心地のよい空間になっていた。縁側に似た「退マル」と呼ばれるところより30センチほど床が高くなっている楼マルは、その名称からも分かるように、高いところからの見晴らしがよくつくられた部屋だ。窓が閉まっていると、天井が低い屋根裏部屋のような感覚だが、窓を開けた瞬間、その景色に感嘆の声があがる。庭の木々や目の前の池、そして遠くまで見渡せる。さらにこの窓も内側の二枚の扉を開けてから、外側の扉を上に開けることができる。右側の壁の窓まで開ければ、その開放感は言葉ではいい表せないほどだ。正面は窓もすべて開放すると、最も安定感を感じるという16対9のワイドスクリーンの対比と一致するという。

サランチェに感嘆し、次はアンチェに向かう。サランチェの左に続く塀にある中門からアンチェの領域に入るようになっており、中門にも明齋故宅ならではの工夫がなされている。中門は普通、外側の扉と内側の入口が互い違いになっており、外からの視線をさえぎるようにつくられているが、明齋故宅では扉の下の部分が開いていて、アンチェの中央の位置から訪問者の履物が見えるようになっている。履物によって、家族であるかないかはもちろん、訪問する人たちの身分の高低を知ることができ、それに見合ったもてなしを準備することができるのだ。

アンチェはマダンと呼ばれる中庭を囲むコの字型になっている。中央が板の間で、東側に嫁の部屋と結婚前の娘の部屋、西側に姑の部屋がある。ほとんど左右対称に建てられているのが明齋故宅のアンチェの特徴の一つだ。今も主人が使っているため、嫁の部屋だけ見学することができた。興味深いのは結婚前の娘の部屋と嫁の部屋の間に別室が設けられていること。ここは嫁と娘だけの空間だという。嫁の部屋が東側にあるわけも興味深い。朝日のよい気を受けて健康な男の子を産んで欲しいという配慮からだという。この部屋の窓を開けると、味噌などを入れた甕がずらりと並んだ向こうにケヤキの大木が見え、嫁が期待されながら待遇されたことが分かる。

アンチェの西側に隣接する「クァン」と呼ばれる倉庫にも明齋故宅ならではの工夫が見られる。アンチェとクァンの間には、軒が接するか接しないかくらいの空間があるが、裏よりも表のほうが広くなるようにクァンが建てられている。それによって、アンチェに差し込む西日をさえぎりながらも充分な採光を確保することができる。また、夏に南西方向から吹く風は空間が狭くなることで速度を増し、冬に山側から吹く風は空間が広くなることで遅くなり、夏は涼しく冬は暖かく過ごせるようになっている。そのような科学的な工夫がなされているのは実学にも目を向けた尹拯の思想の表れではないだろうか。

このようなすばらしい故宅も全焼の危機に陥ったことが2度あるという。東学党の乱で蜂起した農民たちは、これまで自分たちを搾取してきた両班の家をことごとく襲った。明齋故宅も火をつけられたが、村人が火を消して難を逃れたという。それは、周囲の人々に与えるなどしながら、謙虚な生活を実践していたことによるものだ。また、韓国戦争の時に北の軍に占領され、米軍が爆撃しようとしたことがあった。それもこの故宅の価値を知る人の進言によって爆撃目標から外されることになった。

先人の知恵が詰まった故宅を見学した後、裏山を巡る散策路を歩いてみた。ケヤキの大木の下に散策路がつくられており、ずらりと甕が並ぶ向こうに故宅が見えた。その向こうに夕日が落ちていく、この上なく美しい光景を眺めながら、再訪を誓った。次はぜひ、この故宅で宿泊してみたいものだ。

 

論山の栄華の歴史が宿る江景近代歴史遺産

高麗時代と朝鮮時代の歴史を耽美したが、論山での魅力的な時間旅行はまだ終わりではない。論山駅から車で20分の距離にある江景は、わずか100年ほど前の論山の繁栄の痕跡を見つけることができる場所。論山旅行のハイライトとして称される地域だ。

江景はその姿から変わっている。内陸部にある論山の田舎の村だが、あちこちに開港場で見られるような赤レンガの建物と、日本の近代史のドラマに出てくるような建物が建ち並ぶ。これらは港を中心に強大な富と経済圏を持っていた華やかな江景を説明する。今では人口1万の閑静な田舎町となったものの、錦江で海とつながっているために、内陸に深く入りこんだ港にもこのような繁栄が訪れたのだ。

江景の港があるため、群山港はもちろん、木浦や釜山、遠く江原道の東海港で獲れた魚介類まで江景に集まった。最も深い内陸にあるため、陸地での移動時間を節約し、内陸輸送に優れた江景は一気に巨大な港に成長し、論山最大の経済圏を形成した。

「1930年代に湖南線鉄道が開通してからは地上物流が発達して江景は急激に衰退しましたが、それ以前には漁師たちは、魚を獲った船でここ江景の港まであがり、交渉をして売っていたのです。内陸と近いので、周辺の商人たちが一人二人と訪れるようになって、国際開港場にも劣らない盛況を見せました。自然と港の周辺に市場が形成し、集まってきた人々のために、様々な店やデパート、銀行など、大都市だけの専有物が入ってきました。1920年代には忠清南道で初めて電気が入ってきた経済大都市となったのです」というのが江景地域文化解説者であるチョン・オッキュさんの説明だ。

もちろん、それも過去の栄光として残るのみ、今では普通の小さな地方小都市の姿をしているが、当時の華やかなりし時代の姿は、江景市内のあちこちに残る当時の歴史遺産が代わりに伝えてくれている。代表的なのは、やはり近代の建築遺産だ。最盛期である1920年代前後に建てられた当時の建物がまだ江景市内のあちこちに残っており、当時の華やかさと隠された江景の全盛期を物語っている。

1910年代初頭に建てられた韓一銀行江景支店の建物が代表的だ。今では江景歴史館に変わって観光客を迎える江景近代建築遺産のランドマークの役割を果たしている。旧韓一銀行の建物である江景歴史館の内部には、当時の歴史を思い出す資料がいっぱいだ。1920年代前後の生活必需品や当時の写真資料などが展示されているが、最も目を引くのは、他でもない金庫だ。旧韓一銀行の建物の展示スペースの裏側には、重い鉄の扉の後ろに巨大な倉庫のような金庫が設置されている。何のための金庫なのかと気になって訊いてみると、担保物を保管するための巨大な金庫なのだという。当然都市の銀行であれば、家の文書や保証書などが担保となるため、小さな金庫で十分だったが、港町だった江景の担保物件は、魚の干物などの実物が担保になったという。港町にある旧韓一銀行でなければ見られない建築様式なので、かなり興味深い。

赤レンガの落ち着いた雰囲気を醸し出す外観も見どころだ。一階建ての建物だが、窓を長く作って2階建てにも見える威厳のあるルネッサンス風建築様式で重厚感が感じられる。あちこちに花崗岩の彫刻が華やかに飾られており、栄えた当時の江景の港の情緒を言葉なく伝えている。

現在、旧韓一銀行江景支店(江景歴史館)は、外部の復元・補修工事が進行中だ。残念ながら、外部全体が復元工事のためのパネルで覆われており、来年上半期まで見ることはできないが、内部の展示は行われているため、足を運んでみる価値はある。

旧韓一銀行江景支店の建物から5分ほど歩くと日本式の木造建築様式を反映した韓屋の建物が迎えてくれる。これが旧延寿堂(ヨンスダン)乾材薬房の建物である。1923年に建てられた延寿堂乾材薬房は、2階建ての日本式の木造建築で、江景の多くの建築物の中で、復元作業を経ていない現存する唯一の建物としての象徴性が高い。

最大の観覧のポイントは、伝統的な韓国式の構造に商店の機能を加え、近代期の韓屋の変遷を示している点だ。構造は韓国式だが、雨をさえぎる1階の日よけの屋根、屋根の装飾材、そして変化した縁側などに日本の木造建築の様式が忠実に反映されており、日本統治時代に建てられた1920年代の韓国内の建築の変化をこの目で確認することができる。

江景近代歴史通り

延寿堂乾材薬房(左)と旧江景労働組合の建物(右)

 

当時の歴史を伝える建物はこれだけではない。江景の港の痕跡を伝える閘門や、韓国初の労働組合である旧江景労働組合の建物(1925年完工)をはじめ、日本統治時代の米の収奪の歴史を示す江景駅前米穀倉庫(1935年推定)、日本式の鋭角屋根の建築様式が目を引く江景工業商業高校官舎(1931年完工)、そして1911年に湖南線の列車開通と共に建てられた、蒸気機関車の給水のための連山駅給水塔などの建築遺産が点在するため、江景の町の中に混在する日本近代史の足跡を振り返ってみるにはぴったりの場所だ。

また、日本統治時代に江景の港の中心商圏だった当時の本町通りの建築物を修理・復元したテーマ通りである江景近代歴史通りもある。現代の建築技法でやりすぎた修復が行われ、当時の痕跡が消えてしまったのは残念だが、当時、江景に住んでいた日本人が残した建物がまだ残っており、軽く散歩してみるにはいいだろう。

江景で絶景を見たいという人には、玉女峯がおすすめだ。論山8景の一つ、玉女峯の本来の名前は江景山だが、玉皇上帝の娘が降りてきて遊んでいるうちに時を逃して天に上がることができずに死んでしまったという伝説がある。玉皇上帝の娘、すなわち玉女が愛した所ということで玉女峯と呼ばれている。

なんといっても風景がすばらしい。下流には群山港、上流には百済の都である扶余につながっており、江景の繁栄をもたらした錦江に、江景川と論山川に分かれる三つの水流が分岐して対岸の平野と晩秋の草原が広がる絶景だ。さらに、日が暮れる頃であれば錦江全体を赤く染める夕日の美しさは絶頂に達する。日本統治時代、日本人がここ玉女峯に神社を建てたという。玉皇上帝の娘が絶景に魅せられたように、日本の神もやはりここが気に入ったようだ。江景旅行の終止符として訪ねておかないと後悔することになるだろう。

玉女峯

 

塩辛13種とおかず8種がテーブルを埋める、塩辛定食

論山市江景を訪ねたら、「塩辛」というメニューは欠かすことができない。江景は韓国を代表する塩辛の産地で、韓国内で取引されている塩辛の約40%が売買され、約1万人の江景住民の約80%が塩辛に関連職種に従事しているという塩辛の名所だ。

江景を回ってみると、巨大な塩辛市場を連想させる。近代の歴史が込められた建築物の裏には塩辛専門店があちこちに点在し、看板をかけた塩辛専門店だけでも軽く100ヵ所を超えるほどだ。
江景が塩辛で有名になった理由は、地理的条件が功を奏した。内陸の奥深くに位置する江景の港は鮮魚を取引するには条件が悪かった。ソウルをはじめ首都圏に鮮魚を運ぶには限界があり、あふれる鮮魚の量を消化するのも難しかったため、おのずと水産物の長期保存法である塩蔵法の研究が、他の港より活発に行われた。その結果が今の江景塩辛である。

今では海産物を運ぶ港も消え、100年前の栄華も見る影はないが、塩辛を作る塩蔵法はそのまま伝来し、当時の味をそのまま引き継いでいる。

街全体が巨大な塩辛市場であるため、わざわざ専門店を探すこともない。江景塩辛の歴史を伝える博物館もあるが、路地を通るたびに潮の香りが漂う塩辛専門店が並んでいるため、あえて博物館を訪ねる理由がないほどだ。

江景で塩辛を楽しむなら「塩辛定食」というメニューがお勧め。江景でなければ味わえない10種の塩辛をふんだんに味わうことができ、観光客に一番人気だ。一番よく知られたイカの塩辛や明太子をはじめ、チャンジャ(タラの内臓)、ホタテ、ベイカ、エビ、天然のカキ、貝、それから江景でなければなかなか味わえない数の子、ニシンのえら、淡水エビ、そしてタチウオの内臓まで、代表的な塩辛が13種類も並び、ナムルやキムチなどの8種の基本的なおかずと豚肉のスユクにテンジャンチゲまで加わったボリュームたっぷりの定食をたった1万ウォンで味わえる。江景の代表メニューであるが、採算が合わないため、販売しているところが多くはない。塩辛の専門店である黄海道塩辛商会が直営しているタルボンガーデン(+82-41-745-5565)が現在も塩辛定食の脈を継いでいるため、江景はもちろん、論山の代表グルメをぜひ味わいたいという人にはお勧めだ。

塩辛定食

論山旅行の新テーマ「ミリタリー」満喫する異色のコース

論山は歴史と自然観光の名所でもあるが、軍事に関連するミリタリーテーマの聖地としても人気だ。韓国最大規模の陸軍訓練所があることから分かるように、論山の至るところに、過去から現在に至るまで、さまざまなミリタリー関連の見所があり、論山旅行の新テーマとして楽しむには最適だ。

陸軍訓練所

| www.katc.mil.kr

1951年の創設から半世紀が過ぎた現在まで累積640万人以上の陸軍将兵を養成している、単一の部隊としては世界最大の軍事教育機関だ。韓国内では練武台(ヨンムデ)という別名でさらに有名で、徴兵制がある韓国で入隊する成人男性の半分以上がここを通過し、4週間に渡って、制式、基礎体力、軍法、銃剣術、射撃、遊撃などの軍事訓練を経て、全国の実戦部隊に配置されている。入営日は毎週月曜日と木曜日で、毎週5千人以上の入隊将兵や家族が訪れており、北朝鮮と対峙する分断国家としての現実と向き合うことができる。また、人気韓流スターなどの入隊も公開的に行われるため、運がよければスターの入隊風景を見ることができる幸運も得られる。

陸軍訓練所と百済軍事博物館

陸軍訓練所(左)と百済軍事博物館(右)

 

 

ミリタリーパーク

論山市で現代的な軍事体験と兵営文化を多彩に楽しむことができるミリタリーテーマパーク。施設内には、近代から現代に至るまでの韓国軍の歴史を盛り込んだ展示館をはじめ、リアルな実戦戦闘体験が可能なサバイバル戦闘体験場、観光客がカジュアルに楽しめるスクリーン射撃場体験ができる。現在、詰めの造成工事が進行中で、2017年下半期にオープンする予定。軍事都市・論山ならではの体験をしてみたい人にはたいへん魅力的なアトラクションとなる見込みだ。

 

百済軍事博物館

| museum.nonsan.go.kr

5千の決死隊を率いて新羅5万の大軍に立ち向かい、論山・黄山伐(ファンサンボル)の戦いで壮烈に戦死した百済の最後の将軍・階伯(ケベク)将軍をテーマに、百済時代の軍事関連史料を展示する特別な博物館だ。百済時代の遺物はもちろん、その時代の軍事の姿を展示するなど、百済の軍事文化をリアルに体験することができる。特に階伯将軍の一代記を描いた4D映像アトラクションである「階伯将軍と黄山伐最後の戦い」など、計3本の映像を立体音響システムやモーションシミュレータを使用して実感をもって楽しむことができる。博物館の近くには階伯将軍の墓所と将軍の遺影と、位牌を祀った祠堂である忠壮祠(チュンジャンサ)があり、国弓体験や乗馬体験などの異色体験も可能だ。

Pocket

関連する記事はこちら

IMG_0801

自然とアート、歴史にグルメ、楽しみ方いろいろ! 江原道・原州

今年、平昌冬季オリンピックによって全世界にその名が知られるようになった江原道。その江原道という名称は、オリンピックの競技が行なわれた江陵の「江」と、原州の「原」をとって付けられた。江陵と原州は江原道を代表する地域だったというわけだ。そんな2都市のうち、今回は原州を訪ねてみた。 文…続きを読む

外島ボタニア

多彩に海を満喫! 慶尚南道 巨済、統営、南海の旅

韓国ドラマを観ていると、「ここはどこなんだろう?」と気になることが多い。そんな数々のロケ地を訪ねるのも旅行の楽しみの一つだ。今回は韓国の南部、釜山から近い海沿いの三都市を巡り、ドラマの人気ロケ地とその周辺のみどころを訪ねた。慶尚南道の巨済市、統営市、南海郡という、韓国人の誰もが行…続きを読む

仏国寺

丸ごと楽しむ慶尚北道 ① 〈清道、慶州、浦項〉新羅の古都、柿ワイン、運河クルーズ

韓国の歴史観光のメッカといえば、慶州だ。三国時代の争いの歴史に終止符を打って統一を果たした新羅の都だったため、歴史的遺産が多く残っている。慶州だけではない。その周辺に魅力的なスポットが点在しているのが慶尚北道だ。その中でも慶州市、浦項市、清道郡を訪ねてみた。 文/町野山宏記者 &…続きを読む

20200925_160959

イ・ガウンと一緒に!「全羅南道」LAN線旅行へ出発してみては

全南道と全羅南道観光財団は新型コロナの長期化に疲労感を感じる国内・外の観光客にむけて、韓流スターのイ・ガウンと共に出かける全羅南道LAN線旅行を公開した。 今回のLAN線旅行は、観光の拠点都市である木浦(モッポ)と、最近アンタクト(非対面)観光地として人気が急浮上している新安(シ…続きを読む

桂山聖堂

大邱市近代建築散策

大邱の近代史を歩く 大邱市近代建築散策  様々な魅力を持つ韓国第3の都市・大邱だが、その一つが、魅力的な近代建築が多く残っているという点だ。大邱の近代史を目の当たりにしてきたという歴史性はもちろんのこと、建築物自体の美しさも優れたものが多く、街歩きが好きな人たちをひきつけて止まな…続きを読む

부여-정림사지-여름--중앙에서-북쪽으로-(5)

百済歴史を巡る扶余の旅

2015年、ユネスコ世界遺産に登録された百済歴史遺跡地区。忠清南道の扶余郡と公州市、全羅北道の益山市の全部で8ヵ所の遺跡が百済の古の歴史を今に伝えている。その中心となる扶余郡にある百済の遺跡を紹介しよう。 文/町野山宏記者   扶余郡は今から1500年前、三国時代の強国…続きを読む

公山城

百済時代へのタイムトリップを楽しむ旅「忠清南道」

華麗なる文化の香りが漂う古都 百済時代へのタイムトリップを楽しむ旅「忠清南道」   韓国・三国時代の一国として、古代より日本と関係の深かった百済。そんな百済文化の1番地として名前が上がるのが忠清南道にある公州(コンジュ)と扶余(プヨ)だ。錦江に沿って隣接している二つの都…続きを読む

外岩里民俗村

百済千五百年の歴史を辿る ‐ 忠清南道

百済千五百年の歴史を辿る 忠清南道      あなたは忠清南道に行ったことがあるだろうか? 韓国の地方観光の中でも慶州や全州などに隠れてあまり知られていないのが事実だが、扶余や公州の百済の遺跡をはじめ、1500年の歴史が刻まれている地方としてよく知られている。…続きを読む




韓国の天気予報韓国のレート
コリアトラベル定期購買

ソウル 路線図
釜山 路線図
テグ 路線図

遯巖書院

新しい韓国が見つかる!大邸広域市
釜山オイソ!
韓国3大アリランの発祥地・密陽市


東海岸圏経済自由区域01
東海岸圏経済自由区域02

  • travel agence