世界遺産登録! 失われし百済の都を歩く

2015年08月26日

定林寺址五層石塔

世界遺産登録

失われし百済の都を歩く

公州市・扶餘郡・益山市

 

韓国で12番目の世界文化遺産が登録された。「百済歴史遺跡地区」という名称の忠清南道の公州市、扶餘郡、全羅北道の益山市にある8つの遺跡だ。百済遺跡地区は公州の公山城(コンサンソン)、公州の宋山里(ソンサンニ)古墳群、扶余の官北里(クァンブクリ)遺跡、扶蘇(プソ)山城、扶余の陵山里(ヌンサンリ)古墳群、扶余の定林寺(チョンニムサ)址、扶余の羅城(ナソン)、益山(イクサン)の王宮里(ワングンニ)遺跡、益山の弥勒寺(ミルクサ)址で、ドイツのボンで開かれた第39回ユネスコ世界遺産委員会で決定された。その「百済歴史遺跡地区」を忠清南道と全羅北道の知事と共に巡る言論社のツアーが行われ、コリアトラベルの記者が参加した。世界の耳目が集まる今、日本とも縁の深い1500年前の百済の遺産を訪ねてみよう。

文/町野山宏記者

 

百済は紀元前18年から660年まで、600年以上続いた韓国の三国時代の一国だ。漢城(ハンソン/現在のソウルの漢江の南岸)に都があった漢城時代、熊津(ウンジン/現在の公州市)に都を置いた熊津時代、泗沘(サビ/現在の扶餘郡)に都を移してからの泗沘の三つの時代に分けられ、今回、世界遺産に登録された遺跡は熊津時代と泗沘時代のものだ。百済の地域では白馬江(ペンマガン)と呼ばれた錦江(クムガン)に沿って百済の歴史の痕跡が残っている。

 

公山城

まずは熊津時代の都となった公山城(コンサンソン)から訪ねてみよう。白馬江の流れを見下ろす公山の尾根に沿って造られた城で、475年、百済が高句麗によって漢城の都を追われて熊津に遷都し、538年に泗沘に再び都を移すまでの63年間、百済の都を守ったのが公山城だった。百済の時代には土城として造られ、朝鮮時代になって石造りに補修されて今に至る。歴史の中で、敗者の遺跡は残ることが難しいものだが、百済が滅亡した後も何度も名称を変えながら城として残されたことからして、白馬江が天然の防護壁として作用する防衛の要地だったことが分かる。

公山城には4つの門があり、そのうちの一つ、西門である錦西楼(クムソル)が現在の入口となっている。勇壮さを誇る城壁の前に、門に上っていく道がつくられている。城壁の上には黄色い旗が何本もはためき、当時の威容が感じられる。今では想像もつかないが、熊津での百済の王宮が公山城の中に入っていたという。

錦西楼からは城壁を城壁の上や、中を巡る散策路がつくられている。緑に囲まれた気持ちのよい散策路であるため、ぜひ歩いてみることをお勧めしたい。特に錦西楼から左へ伸びる城壁は、白馬江を山の上から眺められ、最高に見晴らしのいい場所だ。また、公山城の中の遺跡の発掘が進められており、発掘作業の現場も眺めることができる。

公山城は百済時代だけでなく、その後も使われてきたため、1mほど掘ると朝鮮時代の遺跡が、6mほど掘ると百済時代の遺跡が出土している。百済の遺物が大量に発掘されているため、遺物の研究が進めば、百済に対する認識が大きく変わることになるという。発掘・研究が終わってからの計画は未定だが、百済時代の姿を復元した博物館をつくるという意見などが提示されているという。

熊津時代の王たちが眠る場所が、公山城の西の、城からも見下ろせる位置にある。宋山里古墳群だ。宋山里には7基の古墳が見つかっており、熊津時代の王や王族のものであると推測されている。誰が埋葬されていたのかがはっきりしていないため、1号墳、2号墳と番号で呼ばれている。新羅の王陵とは違い、百済の王陵は横穴式の追加葬が可能な形になっているため、盗掘されやすく、発見当時、1~6号墳は盗掘されて、遺物はほとんど残っていなかった。

しかし、1971年、歴史的な発見がなされた。6号墳の発掘途中で古墳に入る水を抜くための排水路を掘る過程でもう一つの古墳が見つかったのだ。完全に土の中に埋まっており、盗掘の手からも逃れてまっさらな状態だった。それだけではなく、7号墳では考古学において重要な発見がなされた。韓国の古墳は年代や被葬者の名前が書かれていないことが多いが、7号墳からは墓誌石がみつかり、そこに武寧(ムリョン)王の墓であることと埋葬した年代が記されていたのだ。古墳の中には武寧王と王妃が埋葬されており、支石2枚、石獣、金製冠飾1対など、108種4600点あまりの副葬品が見つかった。遺物はすべて国立公州博物館に展示されており、12点の国宝をはじめとする遺物を見ることができる。

武寧王は百済の25代王で、高句麗に漢城の都を追われて混乱した百済の安定を回復した王とされている。韓国の歴史書「三国史記」には、武寧王は高句麗の侵入を撃退し、高句麗軍に壊滅的な打撃を与えるなどの武勇伝が綴られている。

古墳の内部は昔は公開されていたが、損傷が激しくなってきたため、保存のために今では閉鎖されている。しかし、宋山里古墳群模型館には、5、6号墳と武寧王陵は実物大のレプリカがつくられており、実際に中に入って中の様子を体験することができる。5号墳は横穴式の石室墳でドーム型になっているが、6号墳と武寧王陵はレンガ造りだ。6号墳の四方の壁には青龍、白虎、朱雀、玄武の四神図がフレスコ画の方式で描かれている。武寧王陵は、レンガの積み方に工夫が見られる。レンガには蓮の花が描かれ、三方の壁には仏像や仏具を置くためのくぼみがあるなど、仏教との深い関係を見ることができるのも興味深い。武寧王の息子である聖(ソン)王(「日本書紀」には「聖明王」または「明王」と記載)は日本に仏教を伝えたことでも知られている。

 

泗沘時代の栄華を見せる扶餘の遺跡

武寧王の時代に大きく栄えた百済だったが、武寧王の次の代である聖王の時代には高句麗との戦いに敗れ、538年に熊津から泗沘へと都を移すことになる。国号も「南扶餘」と改めて、660年に滅びるまでこの扶餘の地を中心に栄えた。この扶餘の地に都を定めた理由は諸説あるが、収税に便利だったためといわれている。大きく蛇行する白馬江に北・東・南が接しており、水運を利用して税を集めたのだが、昔は潮の満ち干によって扶餘の地まで海の水が上がってきたという。

扶餘羅城

川に三方を囲まれた土地という事実は国防の面でも有効だった。川が天然の堀の役割を担っていたためだが、東側は無防備であるため、「羅城(ナソン)」と呼ばれる外郭の土壁を築いた。粘土と砂を何層にもわたって踏み固めた土壁で、山の稜線に沿って6キロにわたって築かれたものとされている。実際に見てみると、すぐに越えられるのではないかというほどの高さだが、防備の目的よりは都城の境界線を表すものだったのではないかといわれている。

現在、羅城が残っている部分の外側には、泗沘時代の王陵である陵山里古墳群があり、王族のものと推定されている陵が7基残っている。発掘調査の以前にすべて盗掘されており、誰の陵であったのかも明らかにされていないが、一番下の列の3基のうち、2号墳である「中下塚(チュンハチョン)」は聖王、1号墳であるその隣の「東下塚(トンハチョン)」は聖王の息子である威徳(ウィドク)王のものと推定されている。

「東下塚」の内部の壁には四神図が描かれ、天井には蓮の花と雲が描かれている。東西南北の守護神である四神図は道教、そして蓮の花は仏教に関連する文様で、当時、道教と仏教が融合した精神文化を持っていたことが分かる。古墳自体は保存のため、中に入ることはできないが、実物大の模型がつくられており、内部の様子が再現されている。

陵山里の古墳は石を積んでつくられている。中国から伝わったレンガ積みの横穴古墳は、百済に至って簡略化し、成型した大きな石によってつくられるようになった。簡略化したからといって技術は衰えたわけではなく、その石を扱う技術は他の文明にはない精巧なものだった。百済からこの横穴式の古墳を継承した日本においては陵山里古墳群の王陵よりも粗雑な古墳が見つかっていることからも、百済の石を扱う技術の優秀さが分かる。

陵山里の古墳群と羅城との間には百済時代の寺の址が見つかったが、ここで発見されたのが、国宝287号となっている「金銅大香炉(クムドンテヒャンノ)」だ。龍が咲いたばかりの蓮の花をくわえている姿を表現した香炉で、その精巧さと美しさによって多くの人たちを魅了してきた。国立扶餘博物館に展示されているため、ぜひ訪れておきたい。

羅城に囲まれた泗沘都城の中心には定林寺址がある。仏教を中心としつくられた泗沘の都だったが、定林寺は今はその址に五層石塔と石仏が残されているのみだ。しかし、忠南大学校博物館による発掘調査により、伽藍の規模と配置、1028年に増築された事実などが判明し、塑像人物像片や瓦、土器などが出土した。

定林寺址の一番の見所はやはり、高さ8.3mの五層石塔(だ。石塔の1層目の塔身に、百済を滅亡させた唐の武将である蘇定方をたたえる文が刻まれていることから、以前は「平済塔」と呼ばれてきた。百済にとっては不名誉な遺跡であった訳だが、後に、寺の址から「定林寺」という名称が刻まれた瓦が見つかり、もともと泗沘の都の寺の塔であることが分かった。そしてこの塔も「定林寺址五層石塔」と呼ばれるようになった。

韓国の仏塔は、もともと木で建てていたものを石で再現するようになっていくが、この石塔は石塔としての完成度を極めており、非常に均整の取れた比例を見せる優雅な塔として評価されている。構造的にもこの上なく安定しているため、現在まで一度も解体したことのない塔で、もし解体したら、現在の技術でも復元することは難しいといわれている。それだけ百済人は石を使う技術が発展していた。また、高さ数十メートルの木造の塔を建てる技術があったにもかかわらず、10mに満たない石塔を建てたのは、高さを誇るよりは美しい石塔を建てることをよしとする優雅な文化を持っていたからといわれている。

五層石塔の北にある建物には石仏があるが、石仏は高麗時代のものだ。興味深いのは、石仏の台座が百済時代のものだということ。素人目に見ても石仏と台座を比べると、石仏と比べ物にならないほど台座の造りが優れており、そこからも百済の石を扱う文化と技術の高さを図り知ることができる。

定林寺の北、泗沘の都の北端には扶蘇山がそびえているが、この山を囲む形で山城が形成されており、扶蘇山城と呼ばれる。錦江に面した扶蘇山城は、平時には後苑として、戦時には最後の防護城として使われた。

扶蘇山城の南側一帯は、官北里遺跡と呼ばれる遺跡が発見されたところだ。泗沘の王宮址で、これまでの発掘調査によって、大型殿閣建物址、池、木製の貯蔵庫、石造りの貯蔵庫、工房施設、道路などの遺跡が発見された。熊津に遷都した時は、高句麗に追われるようにしてやってきた土地であったため、まともな都市計画はできなかったが、泗沘においては碁盤の目のように区画された都城が築かれた。扶蘇山城から眺めると、羅城に囲まれた都城がよく整備された様子がよく分かる。扶餘全体が百済の遺跡の上に建設された街で、発掘調査は今でも続けられている。扶餘の遺跡を案内してくれた百済歴史遺跡地区統合管理事業団のイ・ヘムン・チーム長は、「百済の遺跡においては、今までは発掘された跡地を見たり、出土品を博物館で見学するというのが百済観光のすべてだったといっていいが、これからは発掘自体を観光コンテンツとして活用できるのではないかと企画中」だと語った。

扶蘇山城は後苑として使われていただけに、景色もよく、散策を楽しむにはちょうどよい場所となっている。入口から入ってまず最初に出会うのが三忠祠(サムチュンサ)だ。百済の三人の忠臣を祀るためにつくられた祠堂で、百済の最後の王である義慈(ウィジャ)王の政治の間違いを正すために苦労しながらも投獄され、獄中で断食して死んだ成忠(ソンチュン)、羅唐連合軍が攻めてきたときに配流された身でありながら防御策を王に伝えた興首(フンス)、新羅の金庾信(キム・ユシン)将軍の5万の軍勢に対して5千の決死隊を率いて戦い、壮烈な死を遂げた階伯(ケベク)が祀られている。

さらに登っていくと現れる迎日楼(ヨンイルル)は、扶蘇山の東の頂にある楼閣だが、本来ここには迎日台があり、鶏龍山(ケリョンサン)の連天峯(ヨンチョンボン)から昇る朝日を迎えるところだった伝えられている。百済の王が毎朝この迎日台に登って朝日を眺めながら国の安泰を祈ったという。この楼閣は朝鮮時代に建てられたもので、鴻山縣の官衙の入口にあったものを1964年に移築したものだ。

百済時代、兵糧米の倉庫があった「軍倉址」を過ぎ、林を過ぎると扶蘇山城竪穴建物址がある。扶蘇山城の周辺で見つかった19基の竪穴建物址の一つで、百済時代の兵士の詰め所だったものと推測されている。保護のため、その上に「資料館」を建てて、建物址には木とわらの屋根をかぶせて当時の様子を復元している。扶蘇山城で最も高い場所である送月台にあるのが泗泚楼(サジャル)だ。楼閣は1824年に建てられた官衙の門を移築したものだ。

扶蘇山城は歴史と自然が満喫できる美しい散策コースだが、百済の滅亡に関する悲話の現場でもある。扶蘇山城が白馬江に面する端の岩の上に「百花亭(ペクファジョン)」という6角形の楼閣が建っている。白馬江を見下ろす美しい景色が眺められるところだが、ここは百済の宮女たちが自ら命を絶った「落花岩(ナッカアム)」と呼ばれる断崖の上にある。660年、羅唐連合軍によって百済の都が陥落した後、百済の3千人の宮女がここで白馬江に身を投げたという伝説の場所だ。その姿が岩から落ちる花びらのようだったということで「落花岩」と名づけられた。宮女たちの悲しみを慰め、辱めをうけるよりは死を選んだ精神をたたえるために、1929年に当時の郡守である洪漢杓(ホン・ハンピョ)が建てたのがこの「百花亭」だ。

「百花亭」からはこの断崖を下りる道ができており、切り立った崖の下まで歩いて降りることができる。断崖の下には「皐蘭寺(コランサ)」と呼ばれる寺がある。寺の起源については諸説あり、もともと百済時代の王のための東屋だったという説や、落花岩から身を投げた宮女たちの魂を慰めるために、高麗時代である1028年に建てられたものという説もある。寺の裏には、衣で目を覆いながら身を投げる宮女たちの姿が描かれており、その前で手を合わせる人たちも多い。

皐蘭寺の裏手には湧き水が出ているところがあるが、この薬水の伝説が興味深い。昔、ある村に仲が良いが子宝に恵まれない老夫婦が住んでいた。ある日、おばあさんの夢枕に道士が現れ、「扶蘇山の川岸の岩にある皐蘭草の露と、岩から出る湧き水に若返りの効果がある」と伝えた。さっそくおじいさんにその薬水を飲んでくるようにと送り出したが、おじいさんは夜になっても帰ってこない。翌朝、おばあさんが薬水の出るところへ行ってみると、おじいさんの服の上で赤ん坊が泣いていたという。「その薬水を1杯飲むたびに3歳若返る」という道士の言葉を、その時になって思い出したおばあさん、この赤ん坊を連れて帰り、一生懸命育てたという。後にこの赤ん坊は立派に成長し、国に大きな功績を立てて百済の最高官職に就くまでになったという。今もこんこんと湧き出ている薬水の前では参拝客が列をなしている。

落花岩を下まで下りると船着場があり、帆掛け舟で白馬江のクルーズを楽しめる。のどかな川辺の風景と共に、切り立った落花岩や百花亭なども川の上から眺められる。落花岩には、朝鮮時代の学者である宋時烈(ソン・シヨル)の筆による「落花岩」という字が刻まれているが、この字も舟の上からのみ眺めることができる。豊かな実りを与え、都城を守った白馬江のクルーズは、扶餘の旅をしめくくるには最高のアトラクションになるに違いない。

扶蘇山城

 

 

武王による王宮址王宮里遺跡と弥勒寺址

百済の遺跡は公州と扶餘だけでは終わらない。全羅北道益山市にも重要な百済の遺跡が残っているからだ。益山市は、王宮址である王宮里遺跡と弥勒寺址が残っている。

240×490mの正方形の王宮址が見つかった王宮里遺跡は、広い敷地内に多くの建物址が発見され、南側には儀礼や政治に関連した建物が、北側には庭園、東側にはトイレや工房などの址が見つかった。

韓国の遺跡の名称は行政区域名をつける慣例になっているが、王宮里はその名称からも分かるように、王宮があった場所として知られていた。王宮里遺跡がそれだが、馬韓の都だったという説、百済の武王の遷都説、後百済を起こした甄萱(キョンフォン)の都だったという説など、さまざまな説が上げられていた中で、百済の武王の王宮だったことが分かった。

当時の建物で唯一残っているのは五層石塔だ。王宮から寺院へと変わったことを示すもので、百済の後期にここが王宮として使われなくなった後に寺院となったと推定されている。興味深いのは定林寺の五層石塔と似ているということ。高さもほとんど同じで、同じ尺度を使っていたことが伺える。二つの石塔がつくられた年代については専門家の意見も割れているが、ほぼ同時代につくられたものであるということについては意見は一致している。扶餘の遺跡との関連性が興味深いのは石塔だけではない。35×18mの大型建物址が見つかったが、扶餘の官北里で見つかった大型建物址と規模と構造がほぼ同じだという。

この石塔は、昔、北側に傾いており、倒壊の恐れがあったため、1965年に解体修理が行われた。その過程で百済時代から高麗時代にかけての遺物が見つかった。基壇部分に空けられた3つの穴からは青銅如来立像と青銅搖鈴、香類が見つかった。1層目の屋根の上面には2つの穴が開いており、それぞれ金メッキが施された2重の箱が見つかった。その一つには蓮の花をかたどったふたが付いたガラスの舎利瓶が入っており、もう一つには金剛経の内容が刻まれた19枚の金の板が金の紐で結ばれて入っていた。石塔の中から見つかった遺物は全州市にある国立全州博物館に展示されている。

遺跡の北側には水の流れを利用した庭園址が見つかっており、現在、発掘調査が行われている。その一部を見ると、溶岩石などの奇石を組み合わせた庭園の址が残っており、優雅な庭園だった当時の姿が思い浮かべられる。

庭園部分は現在発掘作業中で一般公開されていないが、遺跡の発掘や復元、展示などに関する今後の基本計画を来年にはまとめ、その計画に従って事業を展開する予定だと、国立扶餘文化財研究所の裵秉宣(ペ・ビョンソン)所長は語った。

王宮里遺跡もそうとうな規模だが、益山市に残るもう一つの百済遺跡である弥勒寺も東アジア最大の敷地面積を持つ遺跡地だ。歴史書「三国遺事」にも弥勒寺の創建の逸話が記されている。武王が、妻である新羅の善花姫と共に龍華山(ヨンファサン/現在の弥勒山)の獅子寺(サジャサ)の知命法師を訪ねる途中、池の中から弥勒三尊が現れ、それを契機にして弥勒寺を創建したという。「三国遺事」には、弥勒三尊のために金堂と塔、回廊を建てたと記録されている。弥勒寺を建てるにあたって百済の建築・工芸の粋を尽くし、新羅の眞平(チンピョン)王も職人を送って建設を助けたといわれている。当時の技術を総動員して建てられた寺であったわけだ。

寺の建物の配置の様式を伽藍配置というが、仏の舎利を保管し、仏自身を意味する塔と、仏像を安置している金堂の配置がその中心となる。塔と金堂の配置において多いのが一塔一金堂式だが、弥勒寺は世界でも珍しい三塔三金堂式、つまり三つの塔と三つの金堂がある様式となっている。今は石塔が一つ残るだけとなっているが、発掘調査によって、この塔が西側にあった塔で、これよりも高い木の塔を中心に東西に石塔があったことが分かった。

国宝第11号に指定されているこの弥勒寺址石塔は、残念ながら西側が半分以上崩壊しており、日本統治時代である1914年に、日本人によってセメントで補完工事がなされた。そのままでは倒壊の恐れがあったため、やむをえない措置ではあったが、再び崩壊の恐れがあると判断され、解体・補修されることになった。そして1999年から再建工事が進められている。

プレハブの覆いの中で進められている再建工事の様子を見学することもできる。石材は割れていたものが多く、強度を同じにしなければならないため、同質の石材を接着する形で使用するなど、最新の技術が導入されているが、再建は困難を極めているという。構造も非常に複雑で、内部構造も木塔に似せた形でつくられており、さらに安定性を高めるために内側に傾けるかたちで構築されているという、高度な技術を結集している。

もともと残っていたのは6層までだったが、研究の結果、9層まであったものと推定されている。復元した時に、解体前の形に戻すか、本来の姿の想像がほぼ確実な6層まで完成させるか、9層までの本来の姿まで想像してつ復元するかについてはいまだ論議の途中だという。今までは粗雑な復元が多かった文化財だが、世界的な基準に合わせて復元がなされるものと期待される。西塔は元の姿を見ることはできないが、東塔のあった場所に、本来の姿を推定して建てた実物大の復元模型があるため、当時の姿を想像することはできる。

石塔自体も興味深いが、塔の中から見つかった遺物も画期的な資料となるものだった。2009年1月14日、石塔の解体作業の途中で石塔の心柱石の上面中央に舎利孔が発見され、中には舎利の壺をはじめ、王室の安寧を祈願する文が書かれた金の板など23種類の遺物が見つかった。金銅製の2重の舎利の壺の中には舎利瓶と舎利が入っていた。この発見で重要なのは、金板に、639年に百済の王妃が建てたという、建立年度と建立の主体が記されていたことだ。これは百済の歴史研究だけでなく、韓国の仏教文化研究において重要な手がかりを示すものとして評価されている。弥勒寺址で発見されたこれらの遺物は、今年の12月まで、弥勒寺址の敷地内にある弥勒寺址遺物展示館で特別展示を行っているため、この機会は見逃せない。

彌勒寺址

 

Information

公州市まではソウル高速バスターミナルから、扶餘郡まではソウル南部ターミナルから、益山市まではセントラルシティーバスターミナルから高速バスが運行中。所要時間は2時間半~3時間。各市内での移動はタクシーが便利だ。

http://www.gongju.go.kr/japanese.do

http://tour.buyeo.go.kr/html/tour/

http://www.iksan.go.kr/04jp/

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