忠清南道 - 韓国天主教の 故郷を訪ねて

2014年09月22日

教皇フランシスコ
訪韓特別企画

韓国天主教の

故郷を訪ねて

ソルメ聖地
 
 ローマ教皇フランシスコが韓国を訪れた。8月14日に入国し、16日にソウルの光化門で行われた123人の殉教者に福者の称号を与える列福式をはじめ、数多くの日程をこなし、18日、韓国に多くの感動を残して帰国した。韓国の多くの聖地を訪れたが、その中で忠清南道では2ヵ所の聖地を訪問した。唐津市のソルメ聖地と瑞山市の海美邑城だ。忠清南道は韓国内でも有数のカトリックの聖地だ。世界に類を見ない数万人のカトリック信者たちが殉教した韓国カトリックの生き証人でもある。今回、フランシスコ教皇が訪れた忠清南道のカトリック聖地をコリアトラベルが訪ねてみた。
文/町野山宏記者
 
 「天主教」と呼ばれる韓国のカトリック(以下、天主教)の出発は、他の国におけるカトリックの伝来とは少し性格を異にする。外国の宣教師が伝えたのではなく、自ら求め、取り入れるという形をとったのが特徴だ。1600年代、明への使臣であった李睟光(イ・スグァン)が彼の著書「芝峰類説」にイエズス会所属のイタリアの神父マテオ・リッチの「天主実義」、「重友論」などを紹介したのが始まりである。
 その後、1700年代には、李瀷(イ・イク)などの実学者を中心に天主教を研究する風土が生まれ、丁若鏞(チョン・ヤギョン)など韓国の実学知識人を中心に勢力を拡大しつつあった。しかし、儒教が根本思想となっている社会の中で邪教とされたことや、万人平等を唱える天主教が支配階級にとって都合の悪いものであったため、天主教は殉教の道を繰り返す試練の時期を迎える。天主教が迫害から完全に脱し、定着し始めたのは、太平洋戦争が終わる1945年のことだ。
 忠清南道が、天主教の聖地として崇められている理由は、もともと「内浦(ネポ)」と呼ばれていたこの地域が、韓国最初の天主教の司祭が生まれ、活動した天主教の発祥の地であるとともに、長年の迫害によって多くの信者が殉教した地であるためだ。フランシスコ教皇が韓国を訪れて忠清南道までわざわざ足を向けた理由もここにある。

韓国初の神父が生まれた天主教発祥の地
ソルメ聖地

 忠清南道唐津(タンジン)市牛江(ウガン)面にある「ソルメ聖地」は、韓国初の神父である金大建(キム・テゴン)アンドレア(1822〜1846)が生まれ、幼少時代を過ごした場所で、韓国天主教発祥の地と呼ばれる。今回はここで「2014年カトリックアジア青年大会」が行われ、教皇が青年たちと対話の時間を持った。
 ソルメ村で天主教徒の家系に生まれた金大建は、1831年、15歳の時、神父のモーバンによって神学生に抜擢され、崔方濟(チェ・バンジェ)、崔良業(チェ・ヤンオプ)と共に、マカオにあるパリ外邦伝教会東洋経理部に赴き、中等教育を終えた後、哲学と神学課程を修了した。
 そして1845年1月、10年ぶりに韓国に帰国し、迫害の打撃を受けたソウルの天主教会を収拾、まもなく上海に渡り、フェレオール司教の執典のもと神品聖事を受けて、韓国初の司祭となった。
 同年8月にフェレオール司教、ダブリュイ神父と共にソウルに入って活発な宣教活動を行う中、西洋の聖職者たちを韓国に密入国させるために侵入する海路を開拓していたが、巡威島(スニド:現在の北朝鮮咸鏡南道所在)で捕縛されてしまう。時は1846年5月、韓国に再び足を踏み入れてわずか1年4ヵ月後のことだった。
 捕縛された金大建神父は厳しい拷問を受け、4ヵ月後の9月16日、25歳にの若さで軍門絞首刑(首を切って軍門にさらす処刑法)を受けて殉教した。
 金大建神父の聖職者としての活動は1年余りの短期間に過ぎない。しかし、この期間に天主教の聖職者としての資質と司牧能力を示して朝鮮教区の副教区長となり、透徹した信仰と信念で聖職者としての真の姿を見せた。今日、韓国天主教は彼を「聖職者たちの大主保」としており、1925年にローマ教皇ピウ​​ス11世によって福者として宣言され、1984年に聖人として宣言された。
 このような金大建神父の一生を振り返ることができる場所が、ここソルメ聖地だ。ソルメは、うっそうとした松林があるとしてつけられた名前である。金大建神父が生まれた土地というだけではない。ソルメ村は金大建神父の曽祖父である金震厚(キム・チヌ)が50歳で洗礼を受けた後、天主教徒の村となった「信仰の発祥地」だ。また、それ以後、金震厚が辛亥迫害の時に逮捕され、10年以上の獄中生活を送った後に獄死し、金大建神父まで32年の間に4代にわたって殉教者が出た「韓国のベツレヘム」であるわけだ。金大建神父の家系からは11人の殉教者が出ている。
 ソルメ聖地は、1946年に金大建神父殉教100周年を迎えて本格的な造成が始まった。聖地には金大建像、記念聖堂や記念碑、ソルメアリーナ(屋外文化空間)などが造成されている。アリーナとは砂を敷いたローマの円形劇場のことをいうが、ソルメアリーナは金大建神父と彼の同僚たちが丙午迫害(1846年)の時、セナムトの砂浜(現在のソウル市龍山区)で殉教したことを記念して造成された。ソルメアリーナを12使徒像が囲んでおり、西洋の教会のような壮大ささえ感じさせる。
 記念館には、金大建神父の親筆書簡や日記、彼が描いた朝鮮全図、肖像画などが展示されており、見どころも多い。記念館には金大建神父の肖像画が5点展示されているが、時代が下るにつれて美男に描かれた肖像画が重い聖地の旅に暖かな笑いを添えてくれる。
 また金大建神父の生家が復元されており、今回、教皇はソルメを訪問してまず最初にここで金大建神父のために祈祷を捧げた。
 
金大建生家

命と引き換えにした信念韓国天主教殉教の歴史
海美殉教聖地

 「カトリックアジア青年大会」の閉幕式が行われた瑞山市にある海美邑城(ヘミウプソン)は、朝鮮初期に兵馬節度使(各道の軍隊を指揮する将帥)の治所があった歴史的な名所だ。忠清道西海岸の防衛のために平地に建てられた壮大な城で、230年にわたって外国からの勢力の侵入を防いだ朝鮮半島の西の防衛線だった。
 広い平野に囲まれた海抜130mのなだらかな丘の上にあり、面積は19万㎡、円周は約2kmに及ぶ。歴史的な価値も大きい。韓国に現存する邑城の中でその形が最もよく​​保存されていると評価されている。
 このような海美邑城だが、天主教史においては、数多くの殉教者たちの血と涙によって綴られた悲しみの歴史が残っている。海美邑城は1790年代から1880年代までの約100年の間に最も厳しく天主教徒を監禁して処刑した獄舎であり、処刑場だ。
 海美邑城は天主教の弾圧があるたびに登場する。天主教の歴史の大迫害として記録されている1801年の辛酉迫害をはじめ、1839年、1846年、1866年に至る大迫害で、多くの天主教信者がここで命を失った。大迫害の時期ではなくとも、海美邑城は当時、内浦地域(現在の忠清南道地域)の天主教信者をことあるごとに捕まえて拷問し、処刑したため、韓国天主教迫害の歴史は海美邑城の歴史とその流れを共にするといっても過言ではない。
 多くの信徒たちが信念を命と引き換えにした聖地であるだけに、海美邑城は他のどんな殉教の地よりも、当時の残酷な迫害の跡が生々しく残っている。邑城の刑務所址には、手足を縛られ髪の毛を束ねられた殉教者を吊るして拷問したホヤと呼ばれる木が、拷問の痕跡によって当時の様子を無言で語っている。
 当時の殉教者の迫害は、言葉にできないほどに激しいものだった。歴史書には、天主教の迫害が続いた100年間、海美邑城にある大きな2棟の刑務所は捕らえられた天主教信者たちでいっぱいだったと記録されている。彼らは毎日、邑城の西門の外に引き出され、絞首刑や斬首刑、石打の刑などの残酷な方法で死を迎えた。
 生き埋めもためらわずに行われた。朝鮮の実権を握った興宣大院君(フンソンテウォングン)が1866年に天主教弾圧を布告し、朝鮮全土の天主教徒を大量に虐殺した丙寅迫害の時には一人ずつ処刑するのに疲れた朝鮮軍は海美邑城の西の野原に数十人ずつ連れて行っては、穴を掘って生き埋めにした。丙寅迫害当時の殉教者だけでも8千人を越え、当時、朝鮮に滞在したフランスの宣教師12人のうち9人が虐殺された。この時、脱出に成功した、リーデル神父が中国の天津に渡り、天津に駐留していたフランス海軍司令官ローズ提督にこの事実を知らせることによって、後にフランス海軍と朝鮮が仁川江華島で武力衝突を起こす丙寅洋擾(1866年)が発生する決定的なきっかけをつくり、当時の朝鮮が欧米列強と対立する出発点となってしまったという点も、歴史の皮肉といえよう。
 このように倒れていった殉教者の数は、いまだ正確に把握されていない。誰がどのように死んでいったのかはもちろんのこと、海美邑城での殉教者の数も知る術がない。ただ、当時、内浦地域での殉教者が約2万人に達するだろうという仮説だけが残っているに過ぎない。名前と出身地を残した殉教者は、わずか132人。残りの者たちは、名前一文字さえ残せなかった無名の殉教者である。
 海美邑城の西門から1キロほど離れた場所は、殉教者の遺体や遺品が発掘された殉教の現場で、海美聖地が造成されている。ここは「ヨスッコル」と名づけられているが、これは殉教を目の前にした信者たちが「イエス、マリア」と祈祷するのを「ヨスモリ」と聞き間違えて付けられた名前だという。
 悲しい歴史であるが、このような迫害にもかかわらず、天主教信者は殉教を全く恐れていなかったという。信者たちは、喜び勇んで殉教の道を行ったといって間違いあるまい。
 聖人たちの犠牲によって基盤を築いた天主教は、以後、韓国戦争と韓国の民主化運動などを経て韓国近現代史に多大な貢献をした。独裁が蔓延していた時には民主運動の人の盾となって独裁に抵抗した。朝鮮時代も今も、死をも恐れぬ信念によって、宗教の有無にかかわらず、すべての人々の尊敬の対象になっており、海美邑城で韓国の天主教の貴い歴史的価値を確認できるというわけだ。
 韓国宗教史の中で最も悲しい天主教迫害の地・忠清南道に教皇が訪問することによって、聖地が伝える感動の周波数は、今後ますます高まるだろう。
 
海美聖地
 
 

一緒に訪ねたい忠清南道のカトリック聖地

 教皇が訪問したソルメ聖地や海美邑城のほかにも、忠南には120年にわたる韓国カトリックの歴史が刻まれた聖地がたくさんある。忠南を訪ねたらぜひ一緒に訪問することをお勧めする。
 

合徳教会と貢税里教会

合徳聖堂

 唐津市合徳邑にある合徳(ハプトク)聖堂は、1890年にフランスの宣教師によって建てられた陽村教会がその発端となっている。その後1899年に現在の位置に移転し、1929年にこの聖堂の7代目の司祭であるペラン神父によって今の聖堂が建てられた。ここで30年間活動したペラン神父は、朝鮮戦争で北朝鮮軍が攻めてきた時も聖堂を守ろうと避難せず、捕らえられて処刑されてしまった。聖堂の脇には、同じ日に共に殉教した二人の信者とペラン神父の殉教碑が立てられているが、そこに彼らの遺骸はない。
 小高い丘の上に建てられた聖堂は、広い平野の中でランドマーク的な存在となっている。レンガと木造の珍しい様式で、正面の左右にそびえる美しい双搭もこの聖堂の特徴の一つだ。聖堂の中に入ると、薄暗い中、ステンドグラスが鮮やかな色彩で室内を照らし出している。ペラン神父の親戚が描いて寄贈したという聖家族の絵画も掛けられている。
 聖堂の裏に回っていくと、芝生が敷かれた気持ちのよい庭となっており、豊かな田園風景が眺められ、「殉教者の道」と呼ばれる道が伸びているのが見える。見事な蓮池の脇を通るこの道は、数多くの殉教者たちが遠く海美邑城まで引かれていった道だ。合徳聖堂の神父の話によると、信者たちを捕らえるために、逃げられないように足を折るのではなく、腕を折ったという。足を折っては自分で歩けなくなるため、腕を折ったというが、信者たちはその激痛に耐えながら帰らざる遠い道のりを歩いていったという。そんな殉教者たちの足跡をたどることができる場所として多くの信徒たちが訪れている。
 

貢税里聖堂

 合徳聖堂と同じ年に建てられたのが貢税里(コンセリ)聖堂だ。韓国のドラマや映画で美しい聖堂の姿を見たら、ここである可能性が高い。豊かな林と樹齢350年といわれる巨木、そして美しいゴシック様式の聖堂が調和して、カトリックの信徒たちはもちろん、一般の人たちも多く訪れる聖地で、2005年韓国観光公社により、最も美しい聖堂として選ばれた。貢税里とは、この地域に貢税(年貢米)倉庫があったことに由来して付けられた名前だ。
 正面の階段を登ると、穏やかな表情の聖家族像が迎えてくれる。石の台座には「イエス、マリア、ヨセフに似た聖家庭をなさしめたまえ」と刻まれている。右に伸びる坂を登っていくと、ケヤキの巨木の向こうに赤と灰色のレンガでつくられた聖堂が見え隠れする。ケヤキの下の聖母マリアの白い像との調和が美しい。貢税里に聖堂を建てたエミール・デビス神父によって1922年に再建された聖堂で、赤と灰色のレンガによる質実剛健なゴシック様式の聖堂でありながら、白い装飾がポイントとなって軽やかな印象を与えている。
 聖堂の向かって左には、2階建てのレンガ造りの建物がある。昔は司祭館として使われていたが、現在は地域の歴史と内浦地域のカトリックの歴史を見せてくれる博物館となっている。建物の前につけられた階段の白い手すりが赤いレンガに映えて美しい。2階の窓からは韓国の信徒の姿を描いたブラインドが見える。博物館の前には殉教者たちの姿を描いたレリーフを掲げた殉教者墓地がある。納骨堂の形をとったこの墓地には1801年の辛酉迫害から1873年の丙寅迫害で殉教した32名の信徒たちが祀られている。また丘の周囲には、イエスの銅像が散策路に沿って置かれ、木陰の下を散策しながらイエスの生涯を追っていくことができる。
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