公州・扶余・益山を巡る百済歴史紀行

2019年10月01日

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聖なる名「百済」、ユネスコ世界遺産の地を訪ねて

世界が認めた百済文化の出発点、百済の都「公州」

公州は百済の第2の都である熊津があったところだ。韓半島の北方地域を掌握していた高句麗に漢江流域を奪われ、追われるように降りてきたのだが、雨降って地固まるというごとく、百済はここで国力を回復し、輝かしい文化を編み出した。百済のユネスコ世界遺産探訪の最初のコース、それが忠清南道の公州市だ。

公州は475年から538年までの64年間、百済の都であった。22代文周王(ムンジュワン)から26代聖王(ソンワン)まで5人の王が在位したが、そのうち自然死した王は、武寧王(ムリョンワン)一人しかいなかったほどの混乱した時勢だった。ところが、その短い期間に花咲いた文化は漢城百済と比較しても優れた姿を見ることができる。

「以前の歴史の中で熊津(ウンジン)は知られていませんでした。百済が遷都をしてから歴史に登場したのです。滅亡をなんとか免れて降りてきて、約半世紀で文化を隆盛させました。狭い土地に遺跡があふれ、再び泗沘に遷都するようになった中心点が、公山城です」(イ・ヒョンスク公州大学博物館学芸研究士)

公山城は、熊津百済時代の王宮があった場所と推定される場所。王宮推定地は全部で3ヵ所で、熊津という名前の元になったコマナルの近くにあったという説と、公山城の正門である南門のすぐ下の平地という説、そして公山城の中にあったという見解だ。発掘調査の結果、公山城の中の双樹亭(サンスジョン)の前の広場で建物址と瓦などが出土し、王宮址として知られている。

公山城の観覧は、現在、正門のように使われている錦西楼(クムソル/西門)から始まる。錦西楼を入ってすぐ左側に文化観光解説士の詰め所があり、行ってみたいコースを調整して歩いてみるのもよい方法だ。公山城の観覧はコースによって、30分〜2時間ほど。

公山城では、百済が熊津を都に定めた理由を確かめることができる。城をひと回り廻りながら拱北楼(コンブクル)公山亭の展望台に上がると、錦江の流れと広い平野が見える。川が城の北側を流れているため、高句麗の侵入を監視するのに便利だった。また、海上交通も発展していたことが分かる。

皮肉なことに、このような要衝地という役割のために山城の百済時代の姿が遅く発見された。百済が滅亡してからも、その時代に合わせて改築され、百済の遺物は地中深く埋葬されてしまったのだ。

古代の王陵のうちで唯一、主人の名が分かっている武寧王陵も、公州の旅の欠かせないコースだ。武寧王陵に代表される宋山里(ソンサンニ)古墳群は、公州の旧市街から少し外れた西郊外に位置している。まず最初に訪ねるところは熊津百済歴史館。64年間の熊津百済の歴史と5人の王の詳細について学べるよう展示がされている。

 

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武寧王陵を含む全7基の陵がある宋山里古墳群は、1997年から保存上の問題で、内部開放をしていない。その代わりに、古墳群の入口の模型展示館で武寧王陵と5・6号墳を再現した墓の模型を中に入って見ることができる。この三つの墓を再現した理由は、それぞれの形がはっきりと違うためだ。順番にそれぞれの内部を見ていくと、熊津百済時代に王の墓が発展してきた過程がよく分かる。特に武寧王陵の場合、出土した当時の現場の姿が再現されている。文化観光解説士の説明を聞くと、隠された墓の秘密や百済時代の墳墓文化についても知ることができる。

模型展示館を出ると、丘の上に並ぶ宋山里古墳群を巡る動線が組まれている。武寧王陵と5・6号墳を経て、1〜4号墳まで道がつながっている。

宋山里古墳群の隣にある国立公州博物館(http://gongju.museum.go.kr/html/jp)もぜひ見ておきたい。特に武寧王陵から発掘された国宝をはじめとする遺物の本物を実際に見ることができる。

 

素朴ながらきらびやかな泗沘への旅、百済歴史の完結「扶余」

百済の最後を迎えた泗沘(サビ)城と、白馬江(ペンマガン)を見下ろす断崖の落花岩(ナッカアム)がある所「扶余」は、百済の最後の首都であった泗沘の痕跡があちこちに残っている。その「最後」は、叙情性ばかりを示すものではない。最後の首都で花咲かせた百済文化の完結が扶余にある。

新しい跳躍と繁栄を夢見て熊津から泗沘に遷都した百済は、徹底した計画を立てて街を造った。百済の最後の首都である扶余は、ユネスコに登録された世界遺産8ヵ所のうちの半分にあたる4ヵ所の遺跡が位置する。しかし、実際に泗沘時代の遺跡の昔の姿をそのまま留めているのは、定林寺(チョンニムサ)址五層石塔のみだ。新羅と唐の連合軍によって滅亡した百済の歴史の探求もそうだが、消えた遺跡を見るためには歴史の息遣いを探る想像力が必要だ。

 

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定林寺址は、王宮があった扶蘇山と、その真南にある宮南池(クンナムジ)との中間地点にある。扶余市内の中心部に位置するが、寺院址と石塔だけが寂しく残っている。

西暦660年7月18日、百済が滅びたその日、定林寺も百済と共に滅び去った。定林寺も1週間も黒煙を吐きながら燃えたとされている。そして燃えなかった五層石塔だけ残ったわけだ。

五層石塔は、一般人が見ても安定感があり、優雅で美しい。しかし、その石塔は百済の悲しい最後を目撃したのである。華やかでも巨大でもないが、なぜか人をひきつける美しさを感じさせる塔だ。

五重石塔の美しさをより深く感じたいなら、ゆっくり石塔と離れて全体を眺めてみるのがいいだろう。定林寺は、一塔一金堂式の伽藍配置が特徴で、これは古代日本の伽藍造営の母胎となった。日韓両国の歴史の流れの痕跡まで出会うことができるというわけだ。

百済時代の定林寺の威容を見てみたいなら、石塔の前にある定林寺址博物館(www.jeongnimsaji.or.kr/jpn)を訪ねてみよう。12分の1のスケールで再現した定林寺の復元模型は、五層石塔が中心にそびえ、今では見られない金堂と講堂が一直線上に位置する姿を見ることができる。

 

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陵山里(ヌンサンニ)の寺址の西側の尾根に一部だけ残っている羅城(ナソン)も見ておきたい。羅城は、泗沘の都を囲んでいた外郭城だ。百済が熊津から泗沘に都を移した538年前後に積んだ外郭の城で、羅城に沿って城郭の道が造成されて快適に散歩できるので、百済の歴史を感じながら扶余の秋を満喫するのにぴったりだ。

扶蘇山城も百済の歴史を感じるテーマに欠かせない。春になると桜が、夏になると緑が生い茂り、秋には紅葉が、冬になると雪の花が咲き、いつ行っても美しい。扶蘇山城(プソサンソン)は百済泗沘期の王宮の後苑の役割をしていた場所で、ところどころに楼閣や東屋があり、すばらしい白馬江の景色も楽しめる。

 

武王が夢見た世界を歩く、「益山」に隠された百済の物語

世界遺産に登録された百済歴史遺跡地区3番目の都市は、全羅北道の益山だ。益山は百済の武王(ムワン)が生まれ育ったところで、彼の最後の願いが込められた弥勒寺(ミルクサ)址と王宮里(ワングンニ)遺跡が残っている。

益山の百済遺跡にまつわる真実はまだ謎だ。敗者の記録は歴史に残されないように、滅亡した百済の記録もほとんど発見されていないからだ。百済武王の益山遷都が成功したかどうかも正確には明らかになっていない。しかし、弥勒寺址と王宮里遺跡は、百済の燦爛たる文化の痕跡と、他国家との文化交流を示す遺跡としてその価値を認められ、世界遺産に登録された。

 

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益山で百済の歴史を耽美するなら、その最初のページは、百済人の願いを込めた弥勒寺址がふさわしい。弥勒寺址は、新羅との長きに渡る戦乱で百済の民が疲弊しているのを見た武王が、当時の仏教信仰の主流であった弥勒思想をもとに、民に精神的な安定を与えようと創建した、最後の希望ともいえる象徴的な場所だ。現在弥勒寺址には片側が倒壊した西石塔と、92年に新たに建てられた東石塔が立っており、当時の歴史を伝えている。日本統治時代に西石塔が崩れかけているのをセメントで補強したが、それも老朽化したため、セメントを除去して解体復元作業に入った。現在もその作業が進行中だが、一般人も復元現場を観覧できる。機械を一切使わずに石工が手で石を整えて作っている。参考までに、11月には、これまで20年以上にわたって復元工事が続いた石塔が完成する。最後に記録が残っている6階までの状態で壮大な姿を披露する予定で、期待が高まる。

 

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百済が跳躍を夢見た王宮里遺跡も魅力的だ。先に紹介したように、百済の都は漢城から公州、扶余の順に移ったが、武王は益山に遷都する計画も持っていた。その証拠が王宮里遺跡だ。

武王が自分の生まれ育った益山の金馬地域に都を立てようとしていたのは、王権強化の軸だった。武王は強力な王権をもとに、新羅と高句麗に奪われた領土を取り戻そうと試みた。このような状況で、最適な場所が益山であり、その歴史がまさに王宮里遺跡(王宮里遺跡展示館:www.iksan.go.kr/wg)である。

王宮里遺跡は、2段階にわたる復元工事が完了し、さらに壮大な姿を現した。百済滅亡後に王宮跡が寺院に変貌してから建てられた王宮里の石塔がそびえ、王宮の主要な建物の跡がはっきりと残っているため、百済の最後の歴史と遭遇できる。

低い塀に沿って歩いていくと、後苑に到着する。宮殿の中の政治を行なう空間以外の庭園施設は、中国南朝時代の宮殿築造方法と似ている。これは、中国との文化交流があったことを示す資料でもある。後苑には、曲水路(コクスロ)と環水溝(ファンスグ)が曲がりくねって造成されており、百済人の繊細な造園技術を垣間見ることができる。曲水路は後苑の中に流れる水路で、環水溝は王宮をU字型に大きく回る水路だった。今年7月、曲水路と環水溝の復元工事が終わり、水が流れる王宮里遺跡の後苑を散策することができるようになったため、ぜひ訪ねてみよう。

益山を最後に、王宮址のみを残して歴史の中に永遠に消えてしまった百済。華やかなりし過去を記憶しているのは、遺跡に残された建物址や石、塔だけだが、益山は一つずつ歴史のベールを脱いで百済の歴史のパズルを完成させていくだろう。

| 取材協力:財団法人百済歴史遺産センター

Information

公州、扶余へはソウル南部ターミナルから高速バスを利用するのが便利だ。所要時間は約2時間30分。益山へは高速バスのほか、KTXも利用可能。高速バスはセントラルシティバスターミナルから出発し、所要時間は約2時間20分で、KTX利用時には龍山駅から益山行きのKTXに搭乗。所要時間は約1時間10分。公州、扶余、益山市内の移動はタクシーが便利だ。百済の歴史遺跡地区の様々な観光情報は、財団法人百済歴史遺産センターが公式ホームページ(www.baekje-heritage.or.kr/html/jp)を通して提供しており、旅行の準備の参考になる。

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