ユネスコ世界遺産登録から2年~再び訪ねる百済の王都

2017年05月17日

益山弥勒寺址

ユネスコ世界遺産登録から2年

再び訪ねる百済の王都

 

 2015年、公州市、扶余郡、益山市の3市郡に残る百済時代の遺跡がユネスコ世界遺産に登録され、国内外で大きな話題を呼んだ。本紙でも何度か取材を行い、紹介してきたが、新緑が芽生えだす5月、もう一度百済の遺跡を訪ねた。訪ねれば訪ねるほどに新しい面が見えてくる百済の古都が、今回もまた違った表情で記者を迎えてくれた。
文/町野山宏記者

 

古代の日本とも大きなかかわりを持ち、日本史の教科書にも登場する百済だが、百済の歴史を簡単にたどってみよう。百済の創建については諸説あるが、紀元前18年、今のソウルである漢城(ハンソン)から始まったとされている。じょじょに勢力を拡大していた百済だったが、北方の強国である高句麗に悩まされるようになる。そうして西暦475年、文周(ムンジュ)王の時に、高句麗の侵攻によって熊津(ウンジン/現在の公州市)に都を移す。熊津時代に再び力をつけた百済は、538年、聖(ソン)王の時に泗沘(サビ/現在の扶余郡)に遷都した。しかし、新羅の力が強くなり、唐と手を結んだ新羅によって660年に滅ぼされてしまう。

百済の遺跡は、慶州に代表される新羅の遺跡とは違い、「址」としてしか残っていないものが多いのは確かだ。しかし、わずかに残るその痕跡を見ていくと、三国時代のほかの2国にはない豊かな文化を持っていたことが分かる。

百済の痕跡を訪ねる旅は、忠清南道の公州(コンジュ)市から始まった。高句麗に追われて臨時の都として定めた地で、ここを都とした期間も63年と短かった。しかし、武寧(ムリョン)王という歴史に残る偉大な王が現れた、百済にとって重要な時代でもある。

 

公州公山城

 

公州に残る百済の遺跡の中の一つが、熊津の都を守った「公山城(コンサンソン)」だ。韓国の中央部を流れて西海に注ぐ錦江(クムガン)のほとりにそびえる山全体が城となっている。錦江にかかる鉄橋を渡ると現れる楼門が最初に目に付く。錦西楼(クムソル)と呼ばれ、東西南北にある4つの門のうち、西側を守る門だ。

ツツジが華やかに咲き乱れ、新緑と美しい調和をなす坂道を上り、錦西楼をくぐると文化解説士の待機する小屋があった。まずは解説士と共に城壁の上を歩きながら川のほうへ向かう。高い城壁を登ると、錦江の流れが遠くまで見渡せた。高句麗軍に追われてきて臨時に定めたものとはいえ、川と山に守られた天然の要塞であることが分かる。この地に荷を下ろしたのは、もちろん、軍事的な要因が大きいだろうが、この眺めに魅了されたのではないかという気にもなってくる。城壁の上をたどるコースは上り下りの激しい地形でたいへんかもしれないが、そのぶん、絶景が疲れを忘れさせてくれる。

城壁に沿って歩いていくと、川の流れを見渡せる楼や門などの建物がときどき顔を見せるが、それらの建物の多くが朝鮮時代のものだという。公山城は、百済の時代だけではなく、その後の統一新羅、高麗、朝鮮時代まで使われた。さらに公山城の中には数十年前まで村が形成されていた。その村を移住させて発掘作業を行なったが、それぞれの時代の遺物が発見された。百済時代の遺物の代表としては甲冑があるが、革で作られたものだという。それが今でも残ったのは漆によって加工されていたためだといわれており、当時の技術の高さを証明するものとなっている。

公山城が防御のための城であったことは間違いないが、王宮はどこにあったのだろうかという疑問が出てくる。多くの学者たちも王宮を発掘しようと多くの調査を行なってきたが、南門である全南楼の近くに王宮址であると推定される場所が見つかった。起伏の激しい城の中の土地の中で、広い平地となっているところだ。建物の址だけでなく、石を積んで造られた丸い池の址も見つかっている。王陵の方向との位置関係や文献などから推測すると、この場所が王宮があった場所ではないかという話も興味深い。現在も発掘作業は続けられており、歴史学者たちのドラマチックな探求は現在進行形だ。

ここを訪れたある人は、池の址の石に語りかけたという。「お前はその頃のことを知っていても口がないから語れない。私は口があってもその頃のことを知らないから語れない。お前と私は一緒だな」と。歴史のロマンを秘めたここ、公山城は訪れる人を詩人にしてしまうのかもしれない。

歴史的な発見の地宋山里古墳群

公州に残る百済のもう一つの遺跡は、宋山里(ソンサルリ)古墳群。公山城からほど近い丘陵地に発見された王陵群だ。百済の熊津時代の王族が眠る古墳と推定されており、現在、7基の古墳が見つかっている。

この古墳群の最初の発掘が行なわれたのは1927年のこと。1~4号墳が見つかっていたが、すでに盗掘された後だった。その後に見つかった5号墳は1932年に、6号墳は軽部慈恩という日本人によって調査がなされたが、いずれも盗掘された後だったとされている。しかし、1971年、歴史的な発見がなされた。新しく7号墳が発見されたのだ。幸運なことに盗掘された様子はみられず、約4600点にも及ぶ遺物が出土した。そして何よりも重要な発見は、この古墳の主人と年代が分かったこと。玄室の中から発見された誌石には、百済第25代王である武寧(ムリョン)王の墓であることと、523年に62歳で没したことが明記されていた。百済の31代の王陵の中で、盗掘されることなく残っていた唯一の王陵であるということで、武寧王陵の持つ意味は大きい。

武寧王陵から出土した遺物には、武寧王と王妃の誌石、金製冠飾、枕と足置き、装身具などがあり、玄室に至る羨道には想像上の動物を象った石獣などが発見された。それらの遺物は百済の華やかな文化を示しており、中国や日本、東南アジアまで含めたアジアの国々と交易を行なっていた国際都市であったということを示している。武寧王陵で見つかった遺物は古墳群からほど近い国立公州博物館に展示されている。特に武寧王に冠する展示は今年4月にリニューアルオープンし、今まで展示されていなかった武寧王と王妃の木棺も展示されている。古墳群からぜひ足を伸ばしてみたい。

 

公州国立博物館

 

古墳から遺物が見つかったのは武寧王陵だけだが、1~6号墳も興味深い。それぞれ少しずつ形も材料も違うが、横穴式石室古墳であるという共通点を持っている。丘陵地の斜面を横に掘ってつくられ、石やレンガをアーチまたはドーム型に積んだ玄室と、入口から玄室に至る羨道で構成されている。新羅の王陵が、平地に穴を掘って木棺を埋め、石で覆った積石木槨墳であるのとは対照的だ。これは追葬の文化があったためだといわれている。王が亡くなると王陵をつくって埋葬し、その後に王妃が亡くなると王陵の入口をもう一度開けて王の隣に王妃を葬ったわけだ。

昔は古墳の中を見学できたが、破損が激しいために閉鎖され、現在は外から見学するのみとなっている。しかし、古墳群の隣には宋山里古墳群模型展示館がつくられ、古墳の中の様子を見るだけでなく、実物大に作られた模型の中に実際に入って見学できるようになっている。

5号墳は、石で造られたドーム型になっている。壁には防水のために生石灰が厚く塗られていたとされ、その一部が残っている。6号墳は細長いレンガをアーチ型に積んでつくられている。壁には東西南北を司る四つの想像上の動物である四神が描かれている。武寧王陵の内部もレンガを積んだアーチ型だが、6号墳とレンガのデザインが違い、蓮の花が描かれているのは仏教の影響によるものだと推定されている。そして壁のところどころに灯火を置いたくぼみがあるが、埋葬の作業を終えた後、灯りをともしたまま封をした。酸化の原因となる玄室内の酸素をなくすためだろう。さまざまな理知が適用されたことが分かる。

新羅によって滅亡し、歴史の中に葬り去られたものの、大きな力と高い文化を持っていた百済の姿は、王に対して最高の礼を尽くしてつくられた王陵によって垣間見ることができる。

百済滅亡の悲話が残る扶蘇山城

高句麗に追われて漢城から熊津の地に遷都した百済だったが、武寧王の代に至って大きく発展し、安定期を迎えた。そしてその息子である聖王の時代になって、より大きな発展をなすために泗沘に都を移すことになる。現在の扶余郡にはその都だった痕跡が残っている。

熊津と同じように、泗沘の都も錦江と山城に守られていた。錦江は都の北から東に流れて天然の堀をなしている。そして錦江のほとり、都の北側には扶蘇山城(プソサンソン)がそびえ、平時には後苑として、有事の際には砦となった。扶蘇山城の麓には泗沘の王宮址が見つかっており、全体を眺めると王宮から南に区画された街が広がっていることが分かる。そして都の中央には国の寺だった定林寺(チョンニムサ)、都の南には宮南池(クンナムジ)があり、今でもその痕跡が残っている。都の外郭は羅城(ナソン)と呼ばれる城壁で囲まれ、城の外には王陵が形成されていた。このような泗沘の都の遺跡の多くがユネスコ世界遺産に登録されている。

まずは扶蘇山城を訪ねる。広い山城の中を道がいくつも通っており、コースも多様なため、時間に合せてコースを選ぶとよいだろう。山の至るところにさまざまな時代の遺跡が点在するが、ここでは百済の遺跡を中心に紹介してみよう。

山城の入口から登り始めて間もなく現れるのが、百済時代の三人の忠臣を祀る三忠祠(サムチュンサ)。百済の最後の王である義慈(ウィジャ)王の政治の間違いを正すために苦労しながらも投獄され、獄中で断食して死んだ成忠(ソンチュン)、羅唐連合軍が攻めてきたときに配流された身でありながら防御策を王に伝えた興首(フンス)、新羅の金庾信(キム・ユシン)将軍率いる5万の軍勢に対して5千の決死隊を率いて戦い、壮烈な死を遂げた階伯(ケベク)が祀られている。三忠祠自体は近代になって建てられたものだが、忠臣に対する韓国の人々の尊敬の思いが伝わってくる。

三忠祠から山道を登っていくと、少し盛り上がった畝が続いている。解説してもらわないと分からないくらいのものだが、百済当時は2mほどの高さがあった。百済の城壁は土を何層にも踏み固めてつくったもので、その築城方法は日本にも伝えられたという。城壁の上にも立派な松の木がしっかりと根を下ろしている姿が見える。松の木よりもずっと古い城壁だという事実を目の当たりにし、その歴史の深さを実感した。

また登っていくと、半月楼が現れる。錦江に囲まれた街の姿が半月型に見渡せるということで名づけられたという。そのすぐ近くには、扶蘇山城を通る道が交わりあう十字路がある。ここは660年、羅唐連合軍に追われて扶蘇山城に逃げてきた百済の義慈(ウィジャ)王と宮女たちが最後の離別をした十字路だという。ここから義慈王は裏門のほうへ逃げたが結局は捕らえられ、唐まで連行された後に無念の死を遂げた。そして王とは別の道を選んだ宮女たちは落花岩(ナッカアム)の方へと向かった。

落花岩は錦江を望む断崖の上にある。ここまで追われてきた宮女たちは、新羅の軍につかまって辱めを受けるよりは死を選び、錦江の流れに身を投げた。この宮女たちは「三千宮女」と呼ばれているが、3千という数は「数知れないほどの多さ」を表したもので、実際の数字ではないといわれる。どちらにしろ、多くの宮女たちが命を落とした場であることは間違いない。岩の上には「百花亭(ペックァジョン)」と名づけられた東屋が建っている。宮女たちの悲しみを慰め、その高貴な精神をたたえるために、1929年に当時の郡守である洪漢杓(ホン・ハンピョ)によって建てられた。「百花亭」からは錦江の流れが見渡せる。ところで、「百花亭」から眺める錦江の扶余周辺の部分は「白馬江(ペンマガン)」と呼ばれている。その由来は、百済を攻め滅ぼした唐の将軍・蘇定方が、百済をなかなか攻め落とせないのは錦江に龍がいるためだとし、白馬の頭で龍を釣ったためにつけられたという説、あるいは「馬」という字が、当時は「大きい」という意味で使われていたという説がある。

 

扶蘇山城落花岩

 

「百花亭」からはこの断崖を下りる道ができており、切り立った崖の下まで歩いて降りることができる。断崖の下には「皐蘭寺(コランサ)」と呼ばれる寺がある。寺の起源については諸説あり、もともと百済時代の王のための東屋だったという説や、落花岩から身を投げた宮女たちの魂を慰めるために、高麗時代である1028年に建てられたものという説もある。寺の裏には、衣で目を覆いながら身を投げる宮女たちの姿が描かれており、その前で手を合わせる人たちも多い。

皐蘭寺の裏手には湧き水が出ているところがあるが、この薬水の伝説が興味深い。昔、ある村に仲が良いが子宝に恵まれない老夫婦が住んでいた。ある日、おばあさんの夢枕に道士が現れ、「扶蘇山の川岸の岩にある皐蘭草の露と、岩から出る湧き水に若返りの効果がある」と伝えた。さっそくおじいさんにその薬水を飲んでくるようにと送り出したが、おじいさんは夜になっても帰ってこない。翌朝、おばあさんが薬水の出るところへ行ってみると、おじいさんの服の上で赤ん坊が泣いていたという。「その薬水を1杯飲むたびに3歳若返る」という道士の言葉を、その時になって思い出したおばあさん、この赤ん坊を連れて帰り、一生懸命育てたという。後にこの赤ん坊は立派に成長し、国に大きな功績を立てて百済の最高官職に就くまでになったという。今もこんこんと湧き出ている薬水の前では参拝客が列をなしている。

落花岩を下まで下りると船着場があり、帆掛け舟で白馬江のクルーズを楽しめる。のどかな川辺の風景と共に、切り立った落花岩や百花亭なども川の上から眺められる。落花岩には、朝鮮時代の学者である宋時烈(ソン・シヨル)の筆による「落花岩」という字が刻まれているが、この字も舟の上からのみ眺めることができる。豊かな実りを与え、都を守った白馬江のクルーズは、扶余旅行の中でも屈指のアトラクションだ。

 

白馬江クルーズ

 

扶蘇山城の麓には王宮址があると前述したが、それが官北里(クァンブンニ)遺跡だ。ここには大きな建物の址や冷蔵庫址、蓮池址などが残っており、見渡すとそうとう広い範囲にわたって遺跡が発見されていることが分かる。今は地方の小都市に過ぎないが、三国時代当時は朝鮮半島を三分する勢力の首都だったその様子が見えるようだ。

美しい比例を見せる定林寺址五層石塔

官北里遺跡の南、泗沘の中央に位置するのが定林寺址だ。仏教を中心としてつくられた泗沘の都だったが、定林寺は今はその址に五層石塔と石仏が残されているのみだ。しかし、発掘調査により、伽藍の規模と配置、1028年に増築された事実などが判明し、塑像仏像片や瓦、土器などが出土した。

定林寺址の一番の見所はやはり、高さ8・3mの五層石塔だ。石塔の1層目の塔身に百済を滅ぼした唐の蘇定方をたたえる文が刻まれていることから、以前は「平済塔」と呼ばれてきた。百済にとっては不名誉な遺跡であった訳だが、後になって寺の址から「定林寺」という名称が刻まれた瓦が見つかった。高麗時代に大蔵経を収めたという内容が記載されており、高麗時代においても重要な寺であったということがわかる。そしてこの塔も「平済塔」ではなく「定林寺址五層石塔」と呼ばれるようになった。

韓国の仏塔は、もともと木で建てていたものを石で再現するようになっていくが、この石塔は石塔としての完成度を極めており、非常に均整の取れた比例を見せる優雅な塔として評価されている。構造的にもこの上なく安定しているため、現在まで一度も解体したことのない塔で、もし解体したら、現在の技術でも復元することは難しいといわれている。それだけ百済人は石を使う技術が発展していた。また、高さ数十メートルの木造の塔を建てる技術があったにもかかわらず、10mに満たない石塔を建てたのは、高さを誇るよりは美しい石塔を建てることをよしとする優雅な文化を持っていたからといわれている。最近の研究では、定林寺の回廊部分から見つかった塑像仏像は木塔に納めるものであるため、石塔の前に木塔があったのではないかともいわれており、学者の間でも意見が分かれているという。今もあちこちで発掘作業が続けられており、新しい発見が次々となされている百済の歴史の現場を見ているようで興味深い。

五層石塔の北にある建物には石仏があるが、石仏は高麗時代のものと推定されている。仏像の手印の形から推測すると毘盧遮那仏であることは分かるが、この石仏も謎が多い。頭部がなくなっていたじだいもあったというが、1900年代の初頭に撮った写真にはすでに新しい頭部がすえられている。その裏側の中央には穴をふさいだ跡があり、大きな石臼を削ってつくったのだと推定されているが、どのよういないきさつで石臼が使われたのかは分かっていない。

泗沘の外郭を示す羅城と陵山里古墳群

泗沘の都に残るもう一つの遺跡は、陵山里(ヌンサルリ)古墳群と羅城だ。泗沘の都が白馬江に二方を囲まれていることが国防に有利だったが、東側は無防備であるため、「羅城」と呼ばれる外郭の土壁を築いた。羅城は百済の時代だけでなく、高麗時代、朝鮮時代にも使われ、何度か修復された痕跡が見られる。下部は土を何層にも重ねて築城され、上部は石造の城となっている。

羅城には防衛の意味もあったが、城の内と外を区別するための意味合いが大きかったといわれている。城の内側は生ける者のための領域、城の外は死せる者の領域として区別するためのものだ。現在、羅城が残っている部分の外側には、泗沘時代の王陵である陵山里古墳群があり、王族のものと推定されている陵が7基残っている。発掘調査の以前にすべて盗掘されており、誰の陵であったのかも明らかにされていないが、一番下の列の3基のうち、2号墳である「中下塚(チュンハチョン)」は聖王、1号墳であるその隣の「東下塚(トンハチョン)」は聖王の息子である威徳(ウィドク)王のものと推定されている。

「東下塚」の内部の壁には四神図が描かれ、天井には蓮の花と雲が描かれている。東西南北の守護神である四神図は道教、そして蓮の花は仏教に関連する文様で、当時、道教と仏教が融合した精神文化を持っていたことが分かる。古墳自体は保存のため、中に入ることはできないが、実物大の模型がつくられており、内部の様子が再現されている。

今回訪ねて驚いたのは、陵山里古墳群の姿が、以前訪れた時から少しずつ変わっていることだった。古墳群の周辺にも新しく数基の古墳が発見され、現在発掘調査中だという。また、見つかった古墳だけでなく、百済の最後の王である義慈王の檀(墓ではなく、祭祀を行う場所)も建てられていた。義慈王は、百済の滅亡の後に唐でその生涯を終えたが、後に義慈王の墓を探しに行ったものの見つからなかった。そのため、その地の土を持ってきて檀をつくった。

陵山里の古墳群と羅城との間に見つかった百済時代の寺の址も、発掘が終わり、寺の址が分かりやすく表示されていた。この寺は定林寺と同じ一塔一金堂式の伽藍配置で、王陵の祭祀のための寺だったのではないかと推定されている。この位置は遺跡として残されるが、当時の姿は百済文化団地の「陵寺」として復元されている。当時の建築に関する資料が少ないため、国内の遺跡や日本、中国などに残る寺から推測して建てられたものだ。

また、ここ陵山里古墳群の隣の寺から発見されたのが、国宝287号となっている「金銅大香炉(クムドンテヒャンノ)」だ。龍が咲いたばかりの蓮の花をくわえている姿を表現した香炉で、その精巧さと美しさによって多くの人たちを魅了してきた。国立扶餘博物館に展示されているため、ぜひ訪れておきたい。

 

武王の夢の新都王宮里遺跡

百済の歴史は、その都のあった場所になぞらえて漢城時代、熊津時代、泗沘時代に分かれる。すわなち、勃興から滅亡までに三つの都を中心に栄えたが、泗沘時代にもう一つの都があったことが分かっている。それが全羅北道益山市にある遺跡としてその歴史を今に伝えている。

益山市にある王宮里遺跡が百済の王宮址で、弥勒寺址が国の寺の址とされている。益山の王宮を建てたのは、日本でも人気を博したドラマ「薯童謡」の主人公である薯童(ソドン)、30代王である武王(ムワン)だ。昔から五層石塔があることは知られていたが、発掘調査によって、南北490m、東西245mの大規模な王宮址が発見された。塔の手前には宮殿と思われる大きな建物の址をはじめとする多くの建物址が見つかり、庭園址、後苑址、工房址、城壁址などが見つかった。瓦や装飾品、生活の痕跡も多く出土し、百済の文化を知るための貴重な手がかりとなっている。

ここが王宮であったことを知るための重要なてがかりとなったのは、瓦だった。仏教の影響を表す蓮の花を象った軒丸瓦や印が刻まれた印章瓦が多く出土しているが、その中で「首府」の文字が刻銘された瓦が見つかった。このような印章瓦は扶余の官北里遺跡でのみ発見されたものであり、この遺跡が王宮址であったことが分かったというわけだ。

塔の中からも重要な発見がなされた。仏舎利が見つかったのだ。王宮里遺跡の中央にそびえる五層石塔は、昔から少しずつ傾き始めており、倒壊の恐れがあるといわれていた。そのため1965年、解体補修作業が行われたのだが、その際に19枚の金剛経板と舎利箱が見つかった。金の舎利箱の中には深緑のガラスの瓶が入っており、その中からは舎利が発見された。ところでガラスというと価値のないもののように思えるかもしれないが、百済当時は金のような価値を持つそうとうな貴重品だったとされている。

そして王宮里遺跡の北西部にあったとされている工房では、ガラスをつくっていたと推定されており、ガラスだけでなく、ガラスを溶かするつぼなども発見されている。この工房ではそのほか、壺や瓦などもつくっていたことが分かっている。また、この工房址で興味深いのは、トイレの址が発見されたことだ。細長く、深く掘った溝の址が残っており、大腸菌などが検出されているという。

王宮の北部の大部分を占めるのが丘陵地であり、後苑として使われていたが、後苑の前には人工的につくられた庭園があったことが分かっている。水を引き入れて池をつくり、奇岩奇石を置いていた。その岩も韓国内にあるような質のものではないため、外国から運んできたものであることは明らかだ。百済は多くの外国と文化的に交流していたことが分かっているが、その証の一つといえるだろう。

王宮里遺跡は今も発掘調査中だ。これまでも数多くの遺物が発見され、多くの事実が明らかになっているが、1500年前の百済の様子を知るにはまだまだ謎が多い。続けて新しい発見がなされていくことを期待してみる。

 

益山王宮里遺跡

 

王妃のために武王が建てた弥勒寺址

百済の世界遺産を巡る旅の最後に訪れたのは、同じく益山にある弥勒寺址(ミルクサジ)だ。王宮里遺跡と同じく武王が建てた寺院とされている。歴史書「三国遺事」には「王が王妃と共に獅子寺に行くとき、龍華山の麓の大きな池に弥勒三尊が出現したので、寺院をつくりたいという妻の願いを聞き入れ、池を埋めた後、法堂と塔、回廊などをそれぞれ3ヵ所に建て、弥勒寺と称した」という記述がある。その伝説の寺がこの弥勒寺というわけだ。

弥勒寺址の入口を入ると、目の前には青い芝生がきれいに敷かれ、白い弥勒寺の復元された石塔がたたずみ、その背後には弥勒山(「三国遺事」の記述では龍華山)がそびえている。開発の手が入っていない無垢の自然と遺跡が調和しており、世界遺産登録のための視察に訪れたユネスコの担当者も「弥勒山まで含めて世界遺産」と言ったという。それほどの美しい光景だ。

百済の時代の寺院の基本的な伽藍配置は一塔一金堂式だが、この弥勒寺は三塔三金堂式というほかに例を見ない独特なもの。東西の石塔と中央の木塔、そしてそれぞれの塔の後ろに一つひとつに金堂が配置され、回廊が囲っていた。

現在は、西側の石塔だけが残っており、6階部分まで残して半分は崩れていた。これ以上の崩壊を止めるために日本統治時代にセメントで補強したが、セメントの寿命も長くはないため、さらに崩壊する恐れがあった。そのため、セメントを除去して一度解体し、復旧する工事を行っている。記者が気になっていたのは、復旧工事が進展しているのかということ。世界遺産に登録されて間もなく訪れた頃はまだ基壇部分の石柱が立てられた状態だった。期待と不安を感じながら作業場に入ると、すでに3階部分まで工事が進んだ石塔が迎えてくれた。これまで試行錯誤を何度も繰り返しながらここまで作業が進んでいたのだ。工事の日程を何度か修正したようだったが、現在の工期に合わせるよりは、千年万年残るものを建てるほうが重要だという姿勢が感じられる。それでも今年の秋には復旧工事が完了する予定だ。

それでは工事が終わったらどのような姿になるのだろうか。ユネスコの方針によって、残されていた6階部分までが復旧され、セメントで補修されていた部分もその姿で残ることになるという。そのため、復旧工事というよりは補修工事と呼んだほうが正しいのかもしれない。もともと使用していた石材を使い、欠けた部分は補修しながら工事を進めているため、これほど難解なパズルがあるだろうか。文化財を守ろうとする人たちの努力に感嘆した。

修復中の塔の隣には、かつて金堂があった跡地がある。当時使われていた基壇の石が残っているが、基壇が高くなっているのが分かる。これはこの周辺が湿地帯であったため、木が腐らないようにするための工夫だという。

二つの石塔の間にあった木の塔は石塔と同じ9層で、石塔より高かったものと推定されている。弥勒寺址の敷地内にある遺物展示館には、創建当時の様子がジオラマで再現されているため、当時の勇壮な姿を想像する手がかりになるだろう。

このジオラマにも再現されているが、弥勒寺址には塔のほかに、幢竿支柱も残っている。幢竿支柱とは旗竿を固定するための支柱のことだが、弥勒寺には2基残っている。これが一つあるだけでも大きな寺であり、これが2基立てられていたということからも弥勒寺の規模がどれほどのものであったかを物語る一つの証拠だといえよう。

弥勒寺址からは数多くの遺物が発見されたが、石塔の中心となる心柱石の上面からは舎利荘厳が発見された。金銅製の舎利壺の中に同じく金銅製の小さな壺が入っており、その中にはガラスでできた舎利瓶の破片と舎利が入っていた。そして、舎利壺と一緒に入っていたのは、青銅盒と金製舎利奉迎記。青銅盒とは珠や金塊、勾玉、琥珀などの宝石が入っていた箱で、金製舎利奉迎記はこの塔に関する記述がある金の板だ。この板の発見によって塔が建てられた年号と、誰が建てたということが明らかになった。ところが、武王の王妃として記述されている人物が、王との愛の物語で描かれている善花姫ではなかった。それについてもさまざまな推測がなされているが、それも興味深い歴史の謎の一つだ。

無言で多くのことを語ってくれる異物を観覧しながら遺物展示館を出ると、風の音と共に「カランカラン」と涼しげな鐘の音が聞こえてきた。さまざまな考証により、東の石塔があった位置に復元された九層石塔の軒下に付けられた鐘の音だ。百済の武王もこんな鐘の音を聞いていたのだろうか。その鐘の音は、まぶしい新緑のように勢いを持っていた百済の王たちの話を語ってくれるようだった。

取材協力: 百済世界遺産センター

 

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Information

公州、扶余へはソウル南部ターミナルから高速バスを利用するのが便利だ。益山市へは高速バスのほか、KTXも利用可能。市内の移動はタクシーが便利だ。公州市では自転車専用道路が整備され、公共自転車貸与サービスも行なっている〈外国人は韓国在住者のみ利用可能)。

公州市:http://tour.gongju.go.kr/html/jp/(日本語)

扶余郡:http://tour.buyeo.go.kr/(韓国語)

益山市:http://www.iksan.go.kr/tour/(韓国語)

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